間話2 不思議な少女との出会い
名前を持たない――それが、僕のすべてだった。
奴隷番号で呼ばれ、命令だけに従い、叩かれ、踏みにじられる。
信じれば裏切られる。それが、この世界の理ことわりだ。
「……ユウト。」
少女が口にしたその音は、まるで夜明けの風のように静かで、柔らかかった。
「……今、何て言った?」
「ユウト。あなたの名前よ。」
胸が震える。僕を”人間”として呼んだ。その事実だけが胸に突き刺さった。
「名前なんか、俺には……ない。」
「あなたの名前はユウトよ。海へ向かう風のような名前。」
まるで、ずっと昔から僕の名前を知っていたかのように、彼女は真剣に言った。
あまりにも綺麗な人だった。
亜麻色の髪は月明かりに揺れて、翡翠色の瞳は深くてあたたかい。
この牢の中にいるのが、場違いに思えるほどだった。
鉄格子越しに、まっすぐに手を差し伸べてくる。
「ユウト、ここから出るわよ。」
眩しいくらいの決意に、僕は思わず目を逸らした。
……信じられるわけがない。
これまで、みんな僕を裏切ってきた。
「信じろって言われてもな……俺は、これまで信じて裏切られなかったことなんて、一度もない。」
彼女が誰なのかもわからない。
僕のことを知ってるなんて、何かの嘘に違いない。
……でも。
その目は、どこまでも真剣で。
それでもいいから、という強さがにじんでいた。
試すように口が勝手に動く。
「……じゃあ、キスしてくれたら、お前を信じてついていく。」
一瞬の沈黙。彼女の翡翠色の瞳が揺れる。
そして、少しも笑わずに、静かに言った。
「……分かったわ。」
心臓が跳ねた。
「ま、待て! やっぱ冗談だ! 冗談だから!」
焦って叫ぶと、彼女はふっとため息を吐いた。
「あなたって、本当に……面倒な人ね。」
不思議と胸が温かくなった。
そのとき、怒声が響いた。
「ユウト、手を出して!」
何が起きるのかもわからなかったが、その声には逆らえなかった。
言われるままに手を伸ばすと、彼女の白い指が僕の手を強く握り返した。
――温かい。
ふわりと風が巻いた気がした。
花と潮の混じった匂いがして、世界が一瞬揺れた。
次の瞬間、足元が宙に浮いて、闇が裂けた。
光――
それが、最初に見えたものだった。
そして僕は、鉄格子の外に立っていた。
「な……にが、どうなって……」
混乱する僕の手を、彼女は離さなかった。
「あとで説明する。今は――走って!」
後ろからは怒号と靴音が迫る。
でも彼女の声に導かれて、僕は走り出していた。
この牢にいたはずの“僕”は、もういなかった。
僕の名前を呼んでくれた人の手を、離すまいと――。
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