第41話 聖火
石畳が、雨に濡れていた。
靴底がわずかに滑る。だが、それすら構わず歩いた。
背中に感じる重さが、俺の歩幅を決めていた。
ザルグの亡骸が、まだ温もりを宿している気がした。
否、それは俺が、そう思いたいだけかもしれない。
だが今は、その錯覚すら縋りたかった。
皮膚に張りつくような雨の感触。
心臓の奥に、鈍く、鋭く、痛みが響く。
その痛みすら、呼吸を繋ぎ止める手段だった。
視線を感じた。
門兵、歩哨、警備の兵士たち……
誰もが立ち止まり、俺の方へ向けられる。
だが、誰一人、声をかける者はいない。かけられるはずもなかった。
俺は歩いた。
止まる理由がない。
振り返る余裕もない。
「……将軍……」
誰かの、震えるような声が耳に届く。
“将軍”――その響きが、今は空虚に響いた。
肩書きに意味はない。命を守れなかった者に、名誉などあるものか。
ザルグの亡骸を背負って帰還する光景を、誰が想像しただろうか。
俺自身もだ。
あいつは戦友であり、戦士であり――なにより、俺を信じてくれた男だった。
あの豪腕が、戦場でどれだけの命を救ってきたか。
あの咆哮が、どれだけ味方を鼓舞してきたか。
それが今、俺の背にある。血に濡れ、声もなく。
――すべて、俺のせいだ。
軍略も、判断も、そして中途半端な覚悟も。
あらゆる未熟さが、あいつの命を削った。
俺がザルグを殺した。
間接的であれ、疑う余地などない。
そう、俺が――殺した。
それなのに。
俺はこうして、歩いている。
濡れながら、卑しくも命を繋ぎ、ただ前へ進んでいる。
その事実が、なによりも重く、苦しい。
自分に対する罰、人間に対する憎しみ、仲間に対する贖罪。
戦士の誇りへの尊重と、悪逆への許容。
殺人の気持ち悪さと、戦の爽快感。
あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混じり合い、腐った泥のように渦巻く。
何が正しくて、何が間違っているのか。
この戦いに、大義などあったのか。
……分からない。
ただ、ひとつだけ確かに言えるのは――
俺は、もう失いたくない。仲間の死を看取りたくはない。
だから決めた。
この手で、オークの帝国を築く。
仲間が生きられる地を。二度と搾取されない未来を。
それが、あいつが託した想い。そして、俺の答えだ。
鉛色の空に白い息を吐く。
顔から、感情が消えていくのが分かった。
怒りも、悲しみも、悔恨も、すべて――焼き尽くされ、炭となった。
乾いた無表情を埋める様に、修羅の炎が静かに燃えていた。
俺の歩く先――兵たちが次々と道を空けていく。
兵士たちが、ひとり、またひとりと、膝をつく。
若い兵士は、気圧されるように自然と膝を折った。
次いで、その後ろにいた老練の兵士も、無言のまま頭を垂れた。
やがて連鎖のように、周囲の兵たちが一斉に膝をつき、深く、頭を下げていった。
それは命令でも強制でもない。
最初は驚きだった。
だが、すぐに悟った。
皆、覚悟にひれ伏しているのだ。
俺が背負っているものの“重さ”に――彼らの心が、平伏したのだろう。
雨が、さらに激しさを増す。
冷たいはずの水が、今は妙に心地よい。
この熱を冷ます、唯一の赦しだった。
俺は前を向く。
絶対に忘れない。この瞬間を、この痛みを。
「殿部隊の救出を急げ!即応可能な大隊を向かわせろ!」
「はっ!」
「シャマルクに“戴冠”と伝えろ!加えて、東の第三区画にオルク=ガルを招集しろ!今から向かう!」
「はっ!」
俺は歩く。
濡れた石畳を踏みしめながら。
失った重さを背負いながら。
♦
砦の空気は重かった。
かつて作戦会議に使われたであろう石造りの部屋は、今や見る影もない。投石器の弾丸によって壁の一部は穿たれ、石材と梁の一部が崩れ落ち、床には瓦礫が散乱していた。
その隙間から吹き込む冷たい風が、血の匂いを攪拌する。雨粒が斜めに差し込み、濡れた石床に鈍く響いた。
その中に、黒鉄の装備に身を包んだオルク=ガルの戦士たちが集っていた。
戦の修羅場を何度もくぐってきた百戦錬磨の者たちでさえ、今この空気には言葉を呑むしかなかった。
部屋の中央には、ザルグの亡骸が横たえられていた。血に濡れた鎧。穿たれた胸部の大穴。
だが、その顔には苦悶ではなく、不思議と静かな安堵が宿っていた。
シャドリクは部屋の隅の石柱に背を預け、黒いフードを深く被り、顔を隠している。
影の中で、どんな表情をしているのか、今は誰にも分からなかった。
グルは折るように、ザルグの傍らに膝をついていた。
信じられない――そんな言葉を何度も心の中で反芻しているような、呆然とした面持ち。誰よりも無骨な男の肩が、かすかに震えているのを俺は見た。
テルンは壁際に立ち尽くしていた。
感情を表に出さないはずの男が、今はまるで火が灯ったような目で俺を睨んでいた。
「おい、族長……これはどういうことだ?」
言葉の温度が、戦場の怒気を思わせた。
声音には、悲しみではなく怒りがあった。
「アンタが……居ながら!ザルグはなぜ死んだ!!!」
叫びと同時に、テルンは俺の胸倉を荒々しく掴んだ。
黒鉄の篭手が軋み音を立てる。
「おい!答えろよ!!」
その怒号が、砦の崩れた天井に反響し、床に転がる瓦礫をわずかに揺らした。
グルが立ち上がった。
拳を握ったまま、テルンと俺の間に割って入る。
「おい、テルン!てめぇ……誰に向かって口きいてやがる?」
その声はいつもの豪胆さを欠き、かすかに震えていた。
怒っていた――が、それはテルンではなく、この現実そのものに向けられたものだった。
「なら、グル……お前はいいのかよ!」
「……いいわけあるかよッ!」
グルは吠えるように返した。
「だがよ……! 男の、戦士の……“本物の覚悟”を……無駄にする気か!」
叫びにも似たその言葉は、重く砦の壁に突き刺さった。
怒り、悲しみ、悔しさ、すべてが詰まった声だった。
テルンはその言葉に、一瞬だけ逡巡するように目を伏せ、
そして、握ったままの拳を、ゆっくりと解いた。
「クソッ……」
地を蹴るようにその場を離れるテルンの足音だけが、しばらく部屋に残った。
他の戦士たちも、テルンと同じような面持ちを浮かべていた。
誰もが、ザルグの死をまだ受け入れきれていない。
特に、彼の直下で剣を振るってきたオーク・ソルジャーたちは、その場に立ち尽くしたまま、まるで魂の抜けたような目をしていた。
崩れかけた砦の一室に、雨と埃の匂いが充満していた。
風が吹き込むたび、破れた布や散乱した書簡がざわめき、まるで死者の囁きのように空気を震わせる。
その中で、静かに放たれた声があった。
「……皆、冷静になれ。仲間割れをしている場合か?」
低く、だが芯を突くような声音だった。
黒いフードを深々と被ったシャドリクの言葉が、荒れていた空気を縫うように場を制した。
誰もが、口を閉ざした。
テルンの息が荒く響く中、シャドリクはゆっくりと顔を上げた。
「……オレ達は隣りの仲間が死ぬと分かっていて、それでも剣を握った。それはなぜだ?」
しばし沈黙ののち、ぽつりと誰かが呟いた。
「……オークの未来のためだ」
その言葉に、シャドリクは頷くように短く返す。
「そうだ。未来のためだ。
命を賭けて、ここまで戦ってきた。血を流してきた。
それは仲間の為であり、自分たちの未来のためだ」
そして彼は、横たわるザルグの亡骸に目を向けた。
「……ザルグにとっての未来。――それは、族長だったんだろう」
胸に重く刺さる言葉だった。
「……見ろよ。あんな豪快だった男が……今は、まるで何かをやり遂げて、安らいだみたいな顔してる」
一瞬、誰かがすすり泣いたような音が聞こえた。
感情を吐き出せない戦士たちの中に、ひと筋の熱が生まれる。
「族長……アイツの最後、立派だったか?」
テルンの問いかけは、大きな意味を持っていた。
それに、俺は力強く応えた。
「ああ。ザルグこそが、本物の戦士だった。……誰がなんと言おうとな」
皆の視線が、俺に集まっていた。
ザルグの亡骸。崩れた砦。焦げた石壁。
そのすべてが、死の匂いと、生きる覚悟の空気を孕んでいた。
俺は一人ひとりを見据えた。
シャドリク。グル。テルン。
そして――オルク=ガルの精鋭たち。
「……俺は、死を終わりだとは思っていない。虚無でもない」
重く、低く、だが室内に静かに響く。
「死は――“聖火”だ。
この地に倒れた仲間たちの魂は、ただ消えたわけじゃない。
それぞれが、この先の道を、俺たちの行く手を……確かに照らしてくれている」
沈黙が落ちる。
誰一人として、目を逸らす者はいなかった。
「継ぎ手が絶えぬ限り――その光は、決して消えはしない。
決してだ!戦士たちの意思も、誇りも、希望も。
進み続ける限り、それは永遠に燃え続ける。
だから……俺たちは、彼らの分も進まなければならない」
ザルグの顔が思い浮かぶ。
あの豪快な笑い声。あの背中。あの力。
もう戻らない。だが、俺達の中に確かにいる。
「……皆、待たせたな。
俺は決めた。この目に映るすべてに、責任を負う覚悟を!」
息を呑む音が聞こえた気がした。
「王になる。国を興す。
この地に、オークの帝国を打ち立てる。
そして――それを邪魔する悉くを、蹴散らそう」
剣を掲げるでもなく、声を荒らげるでもなく、ただ静かに語るその宣言が、強く響いた。
「ここに誓う。
必ず、オークに安寧をもたらす。
そのためなら、もう手段を選ぶつもりはない」
そして黄金の瞳が、再び仲間たちをひとりずつ見据える。
俺は拳を握った。
それが震えていることに気づいていた。だが、それでも握り続けた。
俺は、もう二度と……仲間を死なせない。
沈黙の中、胸に拳を当てる音が響いた。
俺ではない。戦士達が、答えてくれたのだ。
やがて、それはひとり、またひとりへと連なっていく。
音が、魂の鼓動のように、砦の中に鳴り響いた。
「――始めるぞ、都合の良い世界平和を」
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