第42話 覚醒Ⅰ
──人間側・ ロダン視点──
天幕の帆布を、冷たい雨が規則正しく打っていた。音は、戦場の静けさを律する太鼓のように、低く均一に響いていた。
俺は無言のまま、天幕の奥に座す老将――“亜人殺し”ゴドリックの背中を見つめていた。
グリフォン隊の突撃が成功し、オーク軍の主力が動揺している今、その口元には、少年のような笑み――だが底知れぬ冷徹を湛えた曲線が浮かんでいた。
「……なぜ、笑っておられるのですか」
堪えきれず問うと、老将は微動だにせず、ただ指先で戦況図をなぞり、雨音に耳を傾けていた。
やがて沈黙の果てに、低い声が落ちる。
「ロダン。儂がなぜ“亜人殺し”と呼ばれると思う?」
「……最も多くの亜人を討ったからでは?」
「違う。――“最も亜人を理解している”からじゃ」
重い一言が、雨音を裂いた。ゴドリックはゆっくりと顔を上げ、天幕の隙間から覗く灰色の空を睨む。
「君は言ったなロダン。黒鬼――奴は“戦場の流れを読む”と。その言葉を聞いた時、儂の中で一つの仮説が立った」
老将の声には、戦歴を積み上げた者特有の熱が潜んでいた。
俺は思わず息を詰める。
「黒鬼の正体……あれはただのオークではない。儂が思うに――“特異進化個体”、――《オーク・ストラテジスト》だ」
オーク・ストラテジスト。その名を聞いた瞬間、背筋に冷たい刃が這った。
かつて王立士官学校で耳にした伝承が、脳裏に蘇る。
――古の北域、オーク連合を率いた魔眼の軍師。敵の思考を読み、千里先を視るその知略は、諸国を震撼させたという。
脳裏に、無表情に駒を動かす異形の軍師の姿が浮かぶ。
それは確かに、奴――黒鬼を表す言葉だった。
「“オーク・ストラテジスト”。
戦場を俯瞰する黄金の魔眼を持ち、司令塔として軍を操る者。その存在は長らく非現実的とされてきたが……儂は、今の戦で確信した」
老将は図上の駒から指を離し、淡く息を吐いた。
「投石機への即応、影武者の配置、全軍の反転突撃――どれも理に適いすぎておる。あれほど無駄のない戦術が偶然で生まれることはない。“魔眼”は、確かに存在すると見た」
そして静かに目を細める。
「だが、その万能性こそが“穴”でもある。おそらく俯瞰能力の発現には、高度――三百、いや五百メートルは必要だろう。その視界を得てこそ、奴は戦場全体を手中に収める。ならば、潰すべきはただ一つ。――“眼”だ」
ゴドリックは己の眼球を指で軽く叩き、微笑した。
「囮を次々に投入し、“視界”を惑わせ、疲弊させた。橋架け部隊も、投石機も、奴隷の行進も――すべては削るための“雑音”じゃ」
「……では、すべては黒鬼を戦場に引きずり出すための囮だったのですか?」
「そうだ。主役は最初から“グリフォン”よ。奴が視界を取るために前へ出た瞬間、その上空から屠る――それが儂の手だ」
言葉の一つ一つが冷たく、だが恐ろしいほど理路整然としていた。
老将の戦は、最初からオーク軍ではなかった。――ただ一人、黒鬼という怪物を討つための盤上だったのだ。
ゴドリックは、しばし雨音に耳を澄ませるように目を閉じた。
「奴は戦術の化身よ。まるで戦場そのものと会話しておるようじゃ。もしあと十年――いや、たった一年でも長く戦場を知っておれば、儂とてこの局面には至らなんだろう」
声には、確かな敬意があった。
理解ゆえに殺す。
理解したからこそ、殺すしかない。
それが戦場の流儀。
俺はその背を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
この男こそ、人類の英雄。
人間でありながら、修羅に最も近い存在。
――そして今、俺はその背を見失うことなく追っている。
外では、グリフォン隊の翼音が雨を切り裂き、若い騎士たちの歓声が陣に満ちていく。
「押し返したぞ!」「黒鬼が退いた!」
革鎧が軋み、槍が鳴る。恐怖が希望に転じる音。
戦場が息を吹き返す瞬間だった。
ゴドリックは静かに椅子を押し、立ち上がる。
「――さあ、ロダン。盤上に戻ろう。
マグ=ホルドを陥落させる。息つく暇も与えぬぞ」
♦
──オーク側・ バルド視点──
その日も、雨だった。
マグ=ホルド攻囲戦、九日目――。
両軍は陣を隔て、沈黙したまま睨み合っていた。
人間側は、増水した川と悪天候を理由に、橋架けの中止を決断したのだろう。
空を飛ぶグリフォンも、湿気を帯びた重い空気の中では機動を殺される。
一方、我らオークも戦線を動かさず、静かに時間を費やしていた。
戦士たちへの祈り――そして、“弔いの儀”のために。
戦士たちは理解していた。
これから何が始まるのかを。
そして、その意味を。
赤のサーコートに包まれた屍の列を、オルク=ガルが静かに進んでいく。
斃したのはただの兵ではない。
第一騎士団――人間側最強の精鋭。
黄金の獅子を象った軍旗は黒泥に沈み、かつての威光を失って地に伏していた。
もし正面からぶつかっていたなら、我らは壊滅していたかもしれぬ。
この勝利は、背後からの強襲と、“亜人殺し”ゴドリック不在という二つの条件が噛み合った末のものだ。
それでも、この戦果は偶然ではない。
犠牲と戦略、その両輪でようやく掴み取った“血の果実”だった。
(……見ていてくれ。ザルグ)
だが、ここで終わらせるわけにはいかぬ。死は終わりではない。――進化の糧だ。
雨に濡れたサーコートを剥ぎ取る戦士。
赤い布が掌に絡みつく。
その瞳が、鈍くも確かな光を宿した。
「赤の騎士、黄金の精神。……強者として不足なし。喰らう価値は、十分にある」
その言葉に、空気が張り詰める。
全員の目に燃えるような決意の光が宿る。
金色の双眸が、彼らを見渡した。
「求めるのは、最強の戦士団。
皇帝の意志を代行し、帝国の剣として敵を屠れ。
民の希望を背負い、敵の絶望を刻む死神となれ。
それこそが“オルク=ガル”。
帝国の心臓――その名を背負う覚悟はあるか?」
歓声も叫びもない。
ただ全員が、拳を胸に当てる。
それは忠誠の印であり――覚悟の証だった。
“命を投げ打ってでも、この言葉に応える”。
その気迫が、声なき雷鳴のように空気を震わせる。
誰かが、静かに呟いた。
「……命など、とうに賭けている」
雨音が強まり、鉄と泥の匂いが空気に満ちた。
その中で、俺はただ一人、彼ら全員を見据え、告げた。
「――喰らえ」
号令は低く、しかし大地を裂くほどに重かった。
鎧の継ぎ目から血潮が滲み、爪が鉄の味を吸う。
牙が沈黙を破り、儀式が始まる。
重く、鈍く、だが確実に進化の蠢きが走る。
常勝の騎士団を喰らうことで、戦士たちの姿が変わる。
背筋が震え、鎖帷子の隙間から赤黒い光が漏れる。
筋繊維が隆起し、骨が軋み、皮膚が裂ける。
そして、眼窩の奥に燐光が宿り、“原初の咆哮”が無音の闇を震わせた。
進化は、始まった。
まず一人。
ザルグの下で戦ったソルジャーの肩が震え、血とともに低く咆えた。
その瞬間、肉体が膨張し、赤黒い紋様が皮膚を覆う。
黒鉄の鎧が悲鳴を上げ、筋肉がそれを押し裂いた。
朱に染まった瞳が光り、降り注ぐ雨が蒸気となって舞い上がる。
─── STATUS ───
【種族】オーク・バーサーカー
【称号】《狂戦士》
【スキル】《狂戦士の咆哮(ウォー・クライ)》
自身の戦闘力を大幅に上昇させる。また、範囲内の敵を恐慌状態にする。
───
肉体の極限強化は、戦場における“戦意の核”となる。
周囲の兵の闘志を燃え上がらせ、敵の隊列を崩す。
彼の咆哮は、ただの音ではない――恐怖と興奮を同時に撒く呪いだ。
次いで、背後で雷鳴が轟いた。
オーク・ライダーが立ち上がる。青白い光が瞳に走る。
地を踏みしめた瞬間、石畳が砕け、雷光が迸った。
風を纏い、雷を宿す騎兵。
それは戦場を薙ぐ暴風となるだろう。
─── STATUS ───
【種族】オーク・ストームライダー
【称号】《雷騎兵》
【スキル】《雷鳴突進》
騎獣と一体化した突進技能。雷撃を纏い、直線上の敵群を貫通する。
───
雷を纏う突進は、敵陣を焼き払いながら走る。
一瞬で突破口を穿つ“電撃槍”――その軌跡に追随できる者はいない。
砦の影。
一人のオーク・アサシンが双剣を抜いた瞬間、彼は影そのものと化した。
黒い気配が空気を裂き、存在が露と消える。
─── STATUS ───
【種族】オーク・ナイトエッジ
【称号】《殺戮者》
【スキル】《影渡り》
影から影へ瞬時に転移し、敵の背を取る。奇襲と撤退に長けた、影の殺戮者。
───
影渡りは一撃離脱を可能にする。
一人の暗殺が千の恐怖を生む。
敵将を討つために設計された“静寂の刃”だ。
そして端に立つ弓兵。
アーマーピアサーを構えたオーク・アーチャーが、静かに息を止める。
その視界は、もはや“標的”ではなく“世界”を映していた。
─── STATUS ───
【種族】オーク・スナイパー
【称号】《死の製造者》
【スキル】《超集中》
狙撃に特化した技能。雑音を払い、時間を遮断し、命中率と貫通力を極限まで高める。
───
一射ごとに戦況が変わる。
彼の矢は風を読まない――風が、彼に従うのだ。
弓兵という枠を超えた、“戦略兵器”そのもの。
――進化は告げられた。
この変化こそが、我らが掲げる“帝国”という戦略を現実に変えるための礎。
血と肉の契りによって、魂が、新たな形を得た。
誰もが感じていた。
これは、新たな戦争の始まり――
“帝国”の胎動であると。
雨が静かに降り注ぐ。
その音の中で、戦士たちは次の名を待つ。
俺は視線を上げた。
オルク=ガルの列、その最前。
テルン、グル、シャドリク――そして、俺自身。
戦士の視線が、集まっていた。
進化の波は、まだ終わらない。
雨の帳が震え、空気が焦げるような静寂が走る。
次は――筆頭戦士たちの番だ。
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