第2話 自己参照する宇宙

 天野翔の指は、思考の残像を追うようにキーボードを叩いていた。

 時刻は午前二時をとうに回っている。KEKの研究棟は、人の気配が消えた深夜の静寂に満たされ、彼の研究室だけが、スーパーコンピュータ『シミュラクラ』の冷却ファンが発する低周波の唸りと、ディスプレイの冷たい光に支配されていた。モニターには、プレプリントサーバー『arXivアーカイヴ』のウィンドウが開かれている。だが翔の視線は、そこに並ぶどの論文タイトルも捉えてはいなかった。

 超ひも理論、ループ量子重力、修正ニュートン力学――あらゆる理論物理学のフロンティアを巡る知的な彷徨は、袋小路に突き当たった車両のように、同じ場所を虚しく周回するだけだった。どの道も、あの絶望的な問いへと続いている。

「なぜ、この宇宙なのか?」

 問題そのものではない。解き方が違うのだ。これまで自分が拠り所にしてきた物理学という言語そのものが、この問いの前では限界を迎えているのではないか。物理学とは、いわば完成された宇宙の状態を記述する静的な言語だ。だが、もし宇宙が静的な完成品ではなく、今この瞬間も自らを生成し続ける動的なプロセスそのものだとしたら? 探すべきは最終的な『設計図』ではなく、それを実行する『プログラム』ではないのか? この発想は飛躍しすぎだろうか?

 翔は無意識に、開いていたウィンドウを最小化した。デスクトップには、翔の精神状態を映すかのように、無数のブラウザタブが乱立している。その全てを閉じ、一つだけ開いたウィンドウに向き直った。対話型の生成AIのインターフェース。そのオプションを切り替え、標準の対話モードからDeep Diveモードを選択する。カーソルが、静かに入力を待っている。翔はキーボードに指を置くと、思考に任せて言葉を打ち込み始めた。


USER:

物理法則が不変であることを前提とする。しかし、超ひも理論が予測する10の500乗個以上の『可能な宇宙』の中から、なぜぼくらの宇宙の物理定数が選ばれたのかを説明できない。この問題――ランドスケープ問題を解決するための、物理学以外の分野からのアナロジー、あるいは思考のフレームワークを提示してほしい。特に、静的な設計図ではなく、動的な生成プロセスの観点から。


 AIは即座に応答を開始した。しかし、返ってきた答えは明快ではない。生成AIにありがちな、膨大で無秩序なテキストの濁流だった。


AI:

ご指定のクエリに基づき、多分野にわたる概念的マッピングを実行します。関連性の高いドメインとして『計算理論』『理論生物学』『サイバネティクス』『複雑系科学』が同定されました。スティーブン・ウルフラムの『新しい種類の科学』における計算可能宇宙の原則は、決定論的ルールからの複雑性の創発を示唆しますが、ローレンツ不変性や量子現象との整合性に課題が残ります。ジョン・フォン・ノイマンの自己増殖オートマトンは、情報と構築機械の二重性を示し……


 翔は眉間に深い皺を刻みながら、生成され続けるテキストの奔流をスクロールしていく。回りくどい言い回し。無関係な情報の羅列。核心を突かない当たり障りのないアナロジーのカタログ。これまで幾度も生成AIには問いかけていた。だからわかってはいたが、期待はすぐに苛立ちへと変わった。

 諦めてウィンドウを閉じようと、マウスに手を伸ばす。その時、偶然にも情報の濁流の中の一つの段落が、翔の目に留まった。そこだけが、他の部分とは少し文脈の質が違って見えたのだ。


AI:

……上記とは異なるアプローチとして、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが提唱した『オートポイエーシス理論』が挙げられます。これは生命を『自らを構成する要素を、自らの働きによって絶えず生産し、維持し続ける、組織的に閉じたネットワーク』として定義するものです。この理論の独自性は、外部の操作者を必要としないシステムの自律性にあります。この分野における日本の研究者として、京都思索大学の結城聡教授の研究が注目されています。特に、彼のオンライン講義『生命情報学特殊講義:自己を創る知性』は、オートポイエーシス概念を丁寧に説明する専門講義として、一部で高く評価されています。


 オートポイエーシス――自己を創る、か。

 その言葉の響きに、翔は指を止めた。AIの無機質なテキストの中で、その部分だけが、まるで有機的な生命体のように、翔に何かを訴えかけているように感じられた。やがてAIの回答の下に、引用元の羅列が表示される。翔はその中から、結城聡オンライン講義『生命情報学特殊講義:自己を創る知性』のリンクを、まるで暗闇に垂らされた一本の蜘蛛の糸でもあるかのように、食い入るように見つめた。翔の知らない私立大学、『情報科学者』でありながら『哲学者』という異色の肩書を持つ男。そんな彼が配信しているオンライン講義のアーカイブ。

 示された引用元をクリックするとブラウザは動画サイトを映し出し、そこに表示されたサムネイル画像は、DNAの二重螺旋のシルエットに、セル・オートマトンの幾何学的なパターンが重ねられた、抽象的なグラフィックだった。

 物理学のアカデミズムが持つ重厚さとは無縁の、しかし奇妙に知的好奇心をそそるその佇まいに、翔は吸い寄せられるように再生ボタンを押す。画面に、白衣でもなく、スーツでもない、簡素なシャツ姿の結城聡を名乗る青年が現れた。

 背景の黒板には、翔には馴染みのない、しかしどこか構造的な美しさを宿す図式が描かれている。生命の系統樹とは異なる、ネットワーク構造の図。フラクタルなパターンを描くLシステムの展開図。そして、円環を描く矢印で構成された、シンプルな概念図。

 結城は、静かな、それでいて確信に満ちた声で語り始めた。

「一般に、DNAは生命の『設計図』だと考えられています。ぼくは生物学者ではありませんが、これは半分正しく、そして半分は生命という現象の最も重要な本質を見誤っているとされています」

 その言葉に、翔は背筋を伸ばした。

「真に重要なのは、DNAが単なる静的なデータ、紙に書かれた設計図ではないという点です。それは、自らの配列情報を読み解くための『実行系』の情報を内包し、さらに、環境からの刺激に応じて遺伝子の発現を動的に決定するエピジェネティクスという機能を備える、完全な『自己参照的情報システム』なのです」

 自己参照。その言葉が、翔の脳内で長く尾を引いた。

「この研究分野の先駆者は、このようなシステムを『オートポイエーシス』――ギリシャ語で『自己auto』と『創造poiesis』を意味する言葉から、『自己を創出するもの』と名付けました。生命とは、外部の設計者によって組み立てられ、操作される機械アロポイエーシスではありません。自らを構成する要素を、自らの働きによって絶えず生産し、維持し続けることで、自身の同一性を保つ、組織的に閉じたネットワークなのです」

 雷に打たれたような衝撃が、翔の全身を貫いた。そうだ、これだ。物理学者たちが延々と続けてきた宇宙の探求は、まさにアロポイエーシス的なアプローチだった。宇宙という機械を分解し、その部品――素粒子と、設計図――物理法則を解読しようと試みてきた。だが、もし宇宙そのものが、生命と同じオートポイエーシス的なシステムだったとしたら?

 結城の講義は続く。彼の言葉は、翔の思考の核を容赦なく揺さぶった。

「ここに、知性の本質を巡る、重大な問いが生まれます。オートポイエーティック・システムにとっての『知性』とは何か。それは、外部から与えられた問いに対して、予め用意されたデータベースから正解を引き出す能力のことではありません。真の知性とは、問いそのものを理解し、自らを変容させる能力のことなのです」

 聞き終わる間もなく、翔の脳裏で二つの宇宙が衝突し融合した。

 一つは、自身がこれまで人生を捧げてきた、超ひも理論の宇宙。10⁵⁰⁰個という天文学的な数の解を持つ、静的で、完成されたランドスケープの宇宙。

 もう一つは、結城が語る、自己を参照し、自己を創造し、外部からの問いかけに応答して自らを変容させていく、生命的な宇宙。

 ランドスケープ問題の解の膨大さは、絶望ではなかった。あれは完成された宇宙のカタログなどではない。宇宙というオペレーティングシステムが実行可能な、潜在的な『初期設定』のライブラリに過ぎなかったのだとしたら。

 人類が観測する物理法則とは、神が天地開闢かいびゃくの際に書き下ろした不変の法典ではない。それは宇宙という自己参照アルゴリズムが、ビッグバンという初期値から自らの状態を計算し、更新し、展開していく過程で生成される、動的な『実行結果アウトプット』そのものなのだ。

 超ひも理論が要求する10次元やプランクスケールといった概念は、決して間違ってはいない。だが、それはただの『舞台装置』でしかなかった。本当に解き明かすべきだったのは、その舞台で演じられている劇のルール――宇宙を駆動する、根源的なアルゴリズムそのものだ。

 翔は、憑かれたように椅子から立ち上がった。研究室の隅に置かれたホワイトボードに向かうと、乱暴にマーカーを掴み、そこに数式ではないものを書きなぐり始めた。再帰呼び出しrecursionの構造を持つ関数の連なり。自身のメモリ番地を指し示す自己参照ポインタself - referential pointerの概念図。それは物理学の言語ではなく、情報科学の言語で描かれた、新たな創世記の断片だった。

 これまで彼を苛んできた絶望は、跡形もなく消え去っていた。その代わりに、純粋な、そして狂気と紙一重の知的興奮が、彼の全身を支配していた。闇の底で、彼は宇宙の真の姿を幻視したのだ。

 ホワイトボードを前に、翔は震える声で呟いた。

「神さまは数式を書いたんじゃない。――実行したんだ」

 その走り書きこそ、後に翔が〈自己展開宇宙仮説〉と名付けることになる、宇宙の真の姿を記述する最初の『言葉』だった。

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