第1話 ランドスケープの果て

 思考の速度が、電子の移動速度に追いつけない。

 天野翔あまのしょうは、自らの脳神経をシリコンと光ファイバーの末端に接続したいという、非現実的な衝動に駆られていた。

 高エネルギー加速器研究機構(KEKケーイーケー)の研究棟、その四階にある翔の研究室は、深夜の静寂に支配されていた。唯一の音は、計算機室のサーバーラックから壁を隔てて微かに響く冷却ファンの駆動音と、彼のデスク下に置かれたワークステーションの息遣いだけだ。翔の視線は、4Kモニターに映し出された禍々しくも美しいグラフに釘付けになっていた。

 スーパーコンピュータ『シミュラクラ』が三日三晩かけて吐き出した解の分布図だ。超ひも理論が予測する10次元時空の構造を、我々の4次元時空へと折り畳むための数学的な写像。その可能性の枝分かれが、画面上で銀河の星々のように、あるいは悪性腫瘍の増殖のように広がっていた。一つ一つが、それぞれ異なる物理法則を持つ、可能性宇宙の残骸。その数は、もはや絶望を通り越して、一種のブラックユーモアでさえあった。

 10⁵⁰⁰個以上。

 翔の指がキーボードを叩く。シミュレーションのパラメータを調整し、新たな初期値を与える。だが結果は同じだった。解は安定した一点に収束することなく、無限に近い風景ランドスケープの中へと拡散していく。理論が要求する余剰な6次元を丸め込むカラビ-ヤウ多様体の選び方が天文学的に存在し、その幾何学を安定させるためのモジュライ固定が事実上不可能であることを、『シミュラクラ』は冷徹に示し続けていた。

 この宇宙がなぜこの物理定数で、この素粒子の種類で、この次元数でなければならなかったのか。その問いに対する理論からの答えは『無数の可能性があったうちの、偶然の一つ』という沈黙だけだった。

「もし神さまがいるとしたら、なぜこんなにも無駄な宇宙を設計したんだろう」

 どれだけの研究者が同じ言葉を口にしたことだろうか。翔が絞り出した声もまた、誰に聞かれることもなく、モニターの光に吸い込まれて消えた。この問いは、科学者としての敗北宣言に他ならない。説明できない未知を、安易に人格的な設計者の存在に帰結させる行為。それは、翔が最も嫌悪する思考の怠慢だった。

 ドアがノックもなしに開いた。翔は振り向かない。入ってこられる人物は一人しかいない。

「まだやっているのか、天野君」

 白髪を硬質なジェルで固めた、御子柴克己みこしばかつみ教授だった。その声には、感心を装った明確な棘が含まれている。

「御子柴先生。ええ、もう少しだけ」

「もう少し、か。『シミュラクラ』の計算資源は無限ではないぞ」

 御子柴教授は翔の隣に立ち、モニターを一瞥した。そこに映るカオス的なグラフを見ても、彼の表情は変わらない。物理学者としての彼の興味は、とっくの昔に現象そのものから、それを維持するための研究予算と国際的な評価へと移っている。

「来月のストリングス会議で、何か発表できる当ては?」

「……可能性は、常に探っています」

「可能性、か。CERNセルンのエレーナ・イワノワチームは、ループ量子重力理論の分野で着実に成果を上げている。超対称性粒子が見つからない今、風向きが変わりつつあることを君も感じているはずだ。私が欲しいのは、万物の理論の完成報告書でもノーベル賞級の大発見でもない。君のやっていることが単なる数学のお遊びではなく、現実と繋がりうるのだと学会に示す、論文一本分の『進捗』だ」

 正論だった。御子柴教授は実に現実的なマインドを持っている。それは全世界の研究者との舌戦の果てに培われた科学的視点の土台であり、そこは翔も尊敬しているところだ。ただその分、批判覚悟の独創性を彼は犠牲にしている。

 教授が口にしたエレーナという研究者は、翔とは異なるアプローチで量子重力に挑む、聡明なライバルだった。ループ量子重力理論は、翔が依拠する超ひも理論のように、あらかじめ設定された時空という舞台を必要としない『背景独立性』を標榜している。その思想的な鋭さには、翔も敬意を払っていた。だが、認めるわけにはいかない。

「こちらの理論は、背景を必要としますが、その上で演じられる劇の全てを記述できます。ループ量子重力理論は、まだ開演すらできていない」

「口だけは達者だな」

 御子柴教授は溜息をつき、踵を返した。

「今月中に、何らかのレポートを提出するように。それ次第では、来期以降の計算資源の割り当てを考え直さざるを得ない」

 その言葉は、不可逆の刻印として研究室の空気に染み付いた。つまり彼は、その空理空論を捨てて学会の潮流に迎合するか、さもなくば、研究者としての生命線である計算資源を断たれ飼い殺しにされるか選べと——暗に、いや、ほとんど明確にそう告げていた。

 一人になった翔は、ワークステーションの電源を落とした。ファンが静かになると、耳鳴りのような完全な静寂が訪れる。彼は椅子の上で深く背を伸ばし、天井を仰いだ。

 ランドスケープ問題からの逃げ道として、『人間原理anthropicprinciple』を囁く者たちがいる。

「我々が存在しているこの宇宙は、知的生命体が生まれる条件を整えていたからこそ、我々に観測されているのだ」

 そんな考え方だ。

 それは論理的には正しいのかもしれない。だが、翔にとっては科学の放棄であり、知的敗北以外の何物でもなかった。それは、「なぜこの宝くじが当たったのか?」という問いに、「当たりくじだからだ」と答えるような同語反復トートロジーに過ぎない。

 彼はデスクの隅に置かれた、一つの小さな物体に目をやった。何の変哲もない、黒く滑らかな石。幼い頃、祖父と訪れた山中の沢で拾ったものだ。ただの玄武岩だろう。だが、手のひらに収まるその完璧な楕円形と、夜空の闇を凝縮したような深い黒色は、子供時代の翔に、宇宙の根源に対する畏怖と探究心を同時に植え付けた。論理至上主義者を自任する彼の心の奥底に、今も消えずに残る原体験のよすがだった。

 この石ころ一つ、この掌一つを構成する物理法則は、なぜ、この値でなければならなかったのか。なぜ世界は『描きかけの絵』のような状態なのだろうか。10⁵⁰⁰個の死んだ宇宙の可能性の中から、誰が、あるいは何が、この奇跡的な一つを選び取ったのか。思考が行き止まりの袋小路をぐるぐると回り続ける。超ひも理論という、これまで信じてきた道が、目の前で巨大な壁となって塞がっている。

 翔は、まるで救いを求めるように、ブラウザを立ち上げた。明確な目的はない。ただ、この物理学という閉じた迷宮から、一時だけでも意識を逸らしたかった。最新の論文が並ぶプレプリントサーバーをやり過ごし、ブックマークにもない、全く異なる分野の知性を求めて、検索窓に指を伸ばす。

 何かが、変わらなければならなかった。

 宇宙の解き方そのものを、根本から。

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