第8話 鹿人さん、中庭の水やりをする

 次の日の朝。

 飛竜科に侵入した罰則を色々と想像してわたしは重い歩みで花壇に向かっていました。校門から花壇へ向かう途中、緑化委員会の委員長さんに声をかけられました。

「鹿川さん、ちょっと良い?」

「なんでしょうか」

「昼休み、グラウンドの芝生の水やりをやっておいて」

 それを言われて、大変そうな仕事だと思いました。

 この学園のグラウンドはかなり広く、その広さは同時に四つのサッカーの試合を展開できるほど。

 その広さのグラウンドの水やりとなると、かなり大変なのでは。

 これは断った方が良いに決まっています。

 竜人さまとお話ができるようになり、飛竜科に侵入したわたしには怖いものなんてありません。

 これは断りましょう。

「あの、すみません。わたしじゃ難しいと思うのですが……」

「鹿人ならできるんじゃない。足早いし。ていうことでよろしく」

 そう言って、断る前に委員長さんは去って行きました。

 それを追って交渉する勇気が持てず、わたしはとぼとぼと自分の居る花壇へと向かいました。


 花壇にはもう既に竜人さまがいました。水やりももう終わっていました。

 そう考えるとわたしは朝の仕事を何もやっていないわけで、芝生の水やりの仕事を任せられたのも妥当な気がします。

「鹿人さん、おはようございます」

「おはようございます」

 挨拶を返せばぽんと元気良く竜の伊吹が芽吹くのが見えました。何度見ても現実感のない光景です。

 その光景に心奪われる心の余裕はありませんでした。グラウンドの水やりが面倒で憂鬱で少し腹が立っている部分もありました。

 悲しみと怒りで草を抜いていれば、ふと芳醇な香りがしました。顔を上げれば、竜人さまがわたしに竜の伊吹を差し出していました。

「食べますか」

「どうして、突然??」

「……なんだか、元気がないみたいで」

 どうやらわたしを元気づけようとしていたみたいです。確かに竜の伊吹は非常に嬉しいので素直に受け取ります。美味しそうです。

 竜人さまが心配そうにわたしに尋ねます。

「何かあったのですか?」

「昼休みにグラウンドの水やりをやることになりまして」

「それは今日ですか」

「今日です」

 とはいえ、グラウンドの芝生の水やりを任せられた以上その仕事はやらなくては。今日だって朝の仕事を代行して頂いているわけですし。

「お手伝いしますか」

「いえ、大丈夫です。竜人さまは舞踊の練習があるでしょうし」

「それはそうですが」

 雨乞いの祭りも来週に迫っています。きっと昼休みはその練習で竜人さまは忙しいことでしょう。そもそも朝の時間に来てくれていること事態おかしなことなのです。今更ではありますが。

「最近暑いので気をつけて」

「ありがとうございます。竜人さまも舞踊頑張ってください」

 心配してくれる人がいる、それだけでも結構嬉しいものなのです。それが竜人さまであればなおいっそう有り難いものです。


 昼休みは天気予報通り、雲一つない晴天でした。梅雨前のこの時期は非常に暑く、だからこそ雨乞いをするわけなのですが。

 備品倉庫からホースを取り出して水を巻きますが、如何せんグラウンドの面積が広いので終わりが見えません。昼休みまでに終わる気がしません。

 ですは委員長に任せられた、というか押し付けられたからにはやらないと。

 だいぶ弱々しい気持ちで水を撒くこと二十分。頭がぐらぐらとしてきたのを感じました。頭が重くて、歩く度に揺れる頭が痛みを持ちます。

 熱い、熱い、熱い。

 水なんて持ってません。水筒はもう空です。二十分足らずで水筒の水を飲み尽くしてしまいました。

水なんて水なんて持ってません。水筒はもう空です。二十分足らずで水筒の水を飲み尽くしてしまいました。

水なんて持ってません。水筒はもう空です。二十分足らずで水筒の水を飲み尽くしてしまいました。

 喉が渇きました。手元にはホースの水があります。少しくらい飲んでも怒られないでしょう。

 そう考えてホースの水を口に運びましたが、

ホースの水を顔や服にぶちまけました。狙いが外れました。

 ですが、濡れて体が涼しいです。でもなんだか、寒くて。いえ熱いはずなのですが、悪寒が走ります。

 なんだか、駄目な気がします。

 ですが、体が言う事を聞きません。炎天下の下、一度腰を下ろすと、体が全く動きません。

 救急車を呼ぶほどではきっとないでしょう。熱中症でこの時期は病院も忙しいでしょうし、熱中症の鹿人を構っていられるほど、この時期の病院は暇ではありません。

 でも、動かないといけません。だって、わたしは水やりをするよう言われたのですから。断り切れなかったのはわたしです。責任を持たないといけません。

 ふと、足音がしました。こちらに走ってくるそのリズムには聞き覚えがあって。

 ですが、それは、あまりにも。

「鹿人さん!!」

 それは、竜人さまでした。わたしを見て一直線に走ってくる様は、まるでわたしを迎えに来てくれたようで。なんだかとても嬉しいです。

「りゅう、じんさん?」

「立てますか?というかなぜ濡れて!?」

「熱いから、みずほしかった、んです」

 こんな熱いのに竜人さまは走ってきてくれたようで、顔が赤らんでいました。足元では芝生の中から竜の伊吹が生えています。

「熱中症ですか」

「分からない、けど、ちょっとふらふら、して」

「立てますか?」

 竜人さんに言われて立ち上がろうと足に力を込めますが、すぐに腰が抜けて熱い地べたに身体が落ちます。

「え」

「大丈夫、ではなさそうですね」

「ごめんなさい」

 竜人さまはわたしの近くに座り込みます。水やり一つも一人でできない自分が情けないです。

 竜人さまは大きい翼を広げると影を作りました。影ができるだけでかなり涼やかです。

「保健室に今行くのが、一番か」

「そう、ですね」

 救急車を呼ぶほどではありません。きっと少し休めば大丈夫でしょう。影ができたおかげか、それとも竜人さまが側にいるせいか、なんだか安心です。

「悪い」

 竜人さまはそう言うとわたしの体を地面から持ち上げました。竜人さまの顔が近くにあります。

 これは、竜人さまに抱えられています。なんだか、凄い状態なのではないのでしょうか。

 竜人さまはわたしを抱えて走り出すと跳びます、が再び竜人さまの体が地面に着きます。小さな衝撃が体に走りました。

「鹿人さん、すみません」

 竜人さまは悔しそうに謝りました。

 竜人さまは飛ぼうとしているようです。

 もう一度跳びますが、はねるだけで飛ぶまでにはいかないようです。でもさっきよりも長く空中に居るようなそんな気がします。

 何度目でしょうか。

 竜人さまの翼が風を掴みました。そのまま風に乗ってゆらりと安定していくのを感じました。風が涼やかで髪の隙間を通り抜けていきます。

 景色がどんどん高度を上げていくのが見えてきました。

「飛べるじゃないですか」

 飛べないとか言っていたのに。竜人さまが飛べない竜人だと知って少し安心していたのに、すぐに完璧な竜人になってしまいました。

「飛べた」

 そう呟く竜人さまは自分で飛んでいるのになんだか驚いていました。

「鹿人さん、俺、飛べました!!」

 竜人さんは輝かんばかりの太陽のような笑顔を浮かべていました。

 それが本当に、本当に綺麗で。

 そばで竜人さんの姿をたくさん見ていたい、そう思ってしまいました。





 目が覚めると、カーテンに囲まれた清潔なベッドに体を横たえていました。保健室のベッドです。

 首の後ろには氷枕がありました。しかし、もう体は熱くないせいか、冷たすぎてちょっと痛いです。

 スマホの時計を見れば午後三時。ちょうど授業が終わったくらいの時間です。今日はもう授業を受けなくても良いと思うと気が晴れます。

 氷枕から頭を起こしてぼんやりと思い出します。

 芝生に水をあげようとしたら暑さで体調を崩して。歩けなかったから竜人さまが運んでくれて。竜人さまは今まで空を飛べなかったのに空を飛べるようになってて。

 わたしは、竜人さまの腕の中に抱かれて。

 それを思い出して顔が熱くなります。格好いい竜人さまにお姫様だっこなんてされたらそうなるに決まってます。だからこれは変な気持ちとかではなくて。

「ん、元気そうじゃん」

「ひゃ!!」

 竜人さまに抱えられたことを思い出していたら、そこにはカーテンを開けた兎原さんが居ました。考え事をしていて全く気配に気付きませんでした。

「竜人に運ばれたって聞いたけど怪我ない??」

「なんでそのことを!?」

「さっき通りすがりに聞いただけ。保健室の先生がだいぶパニクってたからね」

 竜人が普通科の保健室にやって来ればパニックになるのは仕方がないでしょう。竜人さまを貶める噂とか流れていないと良いのですが。

 竜人さまのことを思い出して火照る顔を冷やそうとすれば兎原さんはにやりと笑います。

「うれしそうじゃん」

「兎原さんはお見通しなんですね」

「まぁね」

 実際浮かれているのは事実です。まるで少女漫画のようなシチュでしたから。それもあってなんだか現実感がありません。もしかしたら夢だったのかもしれません。

「じゃあ、まいが雨乞いの祭りで一緒に回るのって、その竜人?」

「え」

 兎原さんのその言葉に唖然とします。竜人さまと祭りを巡ろうだなんてこと、一度も考えたことが無かったからです。

「土竜がそう言ってたから。さすがにデート邪魔できないなって思ってたけど」

「いえ、さすがに竜人さまと一緒に回るなんてーー」

 そう否定しようとして、わたしは止まりました。

 もしかして、わたしが兎原さんじゃない人と雨乞い祭りを回れば、兎原さんは土竜さんと回るかもしれません。

 そうなれば、土竜さんとの約束を守れるのでは。

 それを思いついて、わたしは軌道修正を行います。

「いえ、烏滸がましいとは思いますが、誘うだけ誘ってみたいと思いまして」

「え、まだ誘えてないの」

「だから、もしかしたら兎原さんとはお祭り回れないかもしれないです」

 土竜さんと兎原さんの恋は応援したいとわたしは思っています。そのためなら、できることがしたいです。

「そっか。悔しいけど、嬉しいかも」

「悔しい、のですか?」

「うん。だって大好きな友だちが取られちゃったんだから。でも、びびりなまいが誰かを誘おうなんてさ」

「びびりって」

 実際びびりなので全く否定はできないわけではありますが。

 本当はあまり竜人さまを誘おうと強く意気込んでいるわけではないのでなんだか良心が痛みます。

「誘えなかったらわたしとお祭り行こうね」

「頑張ります……」


 雨乞い祭りまで、登校日は五日あります。その間になんかしら誘ってみても良いかもしれません。もしかしたら、好意的な返事が貰えるかもしれません。

 そんなことを思っていたのですが、その日を境に花壇の常連の竜人さまは花壇に来なくなってしまいました。


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