第2話 鹿人さん、竜人さまと出会う
鹿人であることを理由に面倒事を押し付けるような行いが横行しているこの学校ですが、世間からは国内随一の名門校「竜華学園」と随分と高い評価を受けています。
竜華学園の一番の特徴は竜人を教育できる飛竜科がある所です。この国で竜人を教育できる高等学校は東の竜華学園と西の竜宮学園のみ。それ以外の場所では基本的に竜人を教育できません。
まぁ、わたしは竜華学園にいるとはいえ、通っているのは普通科なので竜人と接する機会はまずないのですが。
わたしは今日も今日とて、ひとりで花壇の水やりをしていました。
わたしが担当することとなった花壇は飛竜学園南門の近くにある花壇です。南門は普段の登下校で使う門ではないので、朝の時間はほとんど人がいません。聞こえるのは風の音と校門を通る車の音くらい。
わたしがやることは、花壇にホースで水を撒いて、伸びた雑草を抜くだけ。力は要りませんし、三十分程度で終わります。
ただし、それを毎日行わなければならないと思うと少し憂鬱です。そのために毎朝三十分早く登校しなければならないのは、正直なところなかなかつらいものがあります。部活動に入っていなかったことを感謝すべきなのか、それとも部活を言い訳にできなかったことを後悔すべきなのか。
しかし、何日か続けているうちに、花壇の世話をする時間が少しだけ楽しみになってきました。
土に触れていると気持ちが落ち着いていくのが分かります。わたしの中に残っている鹿人の本能なのでしょうか。ガーデニングとは相性が良いみたいです。我ながら単純です。
今日やることは、パンジーの植え替え作業です。
委員長からやってほしいと頼まれたのです。あの委員長はわたしなら何でも押し付けて良いと思っているのでしょうか。思っているのでしょう。でも断る度胸もないのは事実なのでやるしかないのですけども。
全部で二十株ほどのパンジーの株を校門からこの花壇まで運んだ後、植え替えをします。
初めこそ重いし多いし少し面倒だと思っていましたが、植え替えをしているうちに楽しくなってきて、気がつけば自然と鼻歌がこぼれます。土を株に被せる感触が心地よいです。元気に育って綺麗な花を咲かせる日が楽しみで堪りません。
「明日も水やり頑張りますか」
そんな決意を誰に伝えるでもなく宣言しました。
あまり人目につく花壇ではありませんが、こうも毎日水やりをしていれば愛着が芽生えるもので。やるからにはできるだけ綺麗な花壇にしたくなるのが野を駆ける鹿の血というものです。
十五個目のパンジーの株を植えた、そのときでした。
背中に、ざわり、と冷たい気配を感じました。
土に触れる喜びが鹿の血に依るものであれば、この恐怖も同じ。本能的な恐怖であり畏怖であります。心臓が跳ねて、感覚が研ぎ澄まされるのを感じました。
おそるおそる振り返って、その正体を目にしたとき、わたしは思わず息を飲みました。
「……竜人?」
綺麗な黒檀の髪の間から伸びた鋭い角。背中には力強い翼が収められています。その身には飛竜科の制服を羽織っていました。
それは明らかに、「竜人」と呼ばれる存在でした。
この世界には、人の姿を持ちながら、動物の特徴を備えた種族が多く暮らしています。鹿人であるわたしもそうです。
しかし、その中でも明らかに別格とされているのが竜人です。人智を超える力と気高さを備え、ただ存在するだけで大地に恵みをもたらすとされている、まさに、上位存在です。
その竜人は、竜華学園の飛竜科の制服を身に着けていました。
竜華学園の飛竜科には竜人たちが通っています。しかし、竜人たちは飛竜科と呼ばれる専用の校舎で学んでいて、普通科のわたしたちとはまったく接点がありません。
同じ学園にいながらその姿を見る機会はほとんどない、それが竜人です。それなのに、どうしてこんな普通科のはずれにある花壇に竜人の人が居るのでしょうか。
花壇をじっと見下ろすその竜人は、それはもう、美しい姿でした。彼が端正な顔立ちをしているのもあって、美しい竜人と花壇という現実離れした光景に、ぽかんとしてしまいます。
なんだか不思議ですが、嬉しさもありました。竜人をこんなに間近で見ることなど、滅多にないことですから。
ちらりと目をやると、その竜人は、わたしが植えたパンジーをじっと見つめていました。
しゃがみこみ、まるで花と会話しているかのような佇まいで。その表情は変わらないままでしたが、どこか寂しげで、でも、凛としていました。
しばらくパンジーを観たあとに、ゆっくりと立ち上がり、一瞬、わたしに視線を向けます。しかし、特に表情を変えることなく飛竜科のある方向へと歩いて行きました。
飛竜科の校舎までは、歩くと二、三十分はかかります。授業には間に合うのでしょうか。でも、竜人の翼ならもっと早く着くのでしょうか。
言葉ひとつ発することもなく去っていくその背中に、「授業、間に合いますように」と、名も知らないその竜人におせっかいな祈りを送ってしまいました。
竜人は普段生活していて目にできるような存在ではありません。竜人を見るために竜華学園に入学したけど全然居ない、なんて愚痴を吐く普通科の生徒が居るくらいには竜人は珍しい存在です。わたしもこの高校に入って初めて竜人を目にしました。
だから、花壇に竜人が来るなんて珍しい事はそう何度もあることではありません。芸能人よりも遭遇するのが難しい方々です。もうこの花壇に来ることは無いだろう、大切な思い出にしよう、そう高を括っていました。
しかし、なぜか、それから毎朝のようにその竜人は花壇にやってきました。
花壇には特に大して珍しい花は植わってないはずなのですが、飽きもせずに毎日毎日その竜人は花壇にやってきます。
毎日のようにやってくるその竜人をわたしは心のなかで「常連の竜人さま」と呼んでいました。それくらい、その竜人は毎日のようにやってきたのです。
常連の竜人さまの影響か、わたしが水やり係になりたての時と比べて、明らかに花が元気です。すくすくと育っています。竜人が通った場所に花が咲いた、なんていう伝説を幼い時に子供番組で見ましたが、あながちフィクションではないのかもしれません。
そんなことを思いつつホースで花に水やりをしていれば、今日もまた、常連の竜人さまの姿がありました。
「また来てますね」
竜人さまには聞こえない程度の声量でわたしは呟きます。
きっと常連の竜人さまはわたしのことは路傍の石くらいにしか思っていないでしょうし、わたしのことを認知しているわけではないでしょう。
しかし、恐ろしいものは恐ろしいもので常連の竜人さまを何度目にしても慣れることができません。竜人さまが居る時は花に水をやる手が無意識に止まります。こちらを認識していないことは分かっていても、緊張で仕事もまともにできません。
気配だけで怖いので早めに帰ってくれないでしょうか、なんて高貴なる竜人さまに対して失礼なことを考えていると、ふと竜人さまと目が合います。
そして、竜人さまが口を開きました。
「俺も手伝いますか?」
驚きました。
声がしたのです。落ち着きのある、誠実そうな声でした。
花壇の向こうから竜人さまの瞳孔がじっとこちらを見ていました。
花壇に他に人は居ません。なので常連の竜人さまの声です。どうやらわたしに話しかけていっらしゃるいる。はじめて話しかけられました。
わたしは、鹿人と呼ばれる種族の生きもので、当然ですが竜人よりはるかに低い地位の生きものです。
「えっと、その」
竜人と言葉を交わすことも許されないような、そんな生きものは、緊張と畏怖でうまく言葉も紡げません。
常連の竜人さまの声がふたたび降ってきます。
「雑草と花の見分けはついているつもりです。草取りのお手伝いしても?」
竜人さまは丁寧な言葉遣いでそんなことを言いますが、わたしは竜人からそんな丁寧な言葉づかいで接されるような生きものではありません。
ですが、だからといって無視することもできません。何か言わなくては。失礼のないように、神経を逆撫でさせることのないようにしなければ。どうにか、何も起こらないような言葉を口にしなくてはならない、そのために回らない頭をなんとか回します。
厚かましく草取りをお願いするなんて許されるわけがないので、勇気を出して、わたしは口を開きました。
「あの、だいじょうぶ、ですので!!」
言いました。臆病な鹿人でも勇気を出して言えました。声をちゃんと出せました。何もしなくても良いということは伝えられる言葉である筈です。
達成感とともに、わたしは顔を上げて竜人さまを見ました。
そこにいた竜人さまは、なんだかかなしそうな顔をしていました。
「あ……」
間違えたと思いました。
矮小な鹿人が傲慢にも尊き竜人の機嫌を損ねる、それは即ち死を意味します。今首を掻き切られても文句は言えません。
ですが、わたしだって矮小なる鹿人でも女子高生。死を覚悟している年ではありません。死にたくはありません。だから、体が動きました。
わたしは、逃げました。
常連の竜人さまから背を向けて、一目散に逃げました。芝生を全力で蹴って、走って逃げました。風よりも早く逃げました。
鹿人が他の種族に誇れるところはその逃げ足です。この国には強い生きものがたくさん居ますが、鹿人の危機判断のはやさと逃げ足のはやさは誰にも敵いません。それが、臆病ないきものである鹿人の生存戦略なのです。
芝生を駆けて、木の茂みを飛び越え、木を掴み、塀の上を走って、普通科の校門までの最短ルートを走り切りました。
そしておそるおそる後ろを見ましたが、そこに竜人さんはいませんでした。思わずほっと一息つきました。助かったと安心したと同時に、自信も得られました。
「ちゃんと、逃げられました」
委員会からは恐くて逃げられなかったくせに、竜人さまからはすぐに逃げられました。死を覚悟すればちゃんと逃げられるみたいです。
わたしはちゃんと鹿人でした。逃げる勇気も持てないわけではないようで、安心できました。
しかし、胸の奥がちくりと痛みます。竜人さんにかなしそうな顔をさせてしまって逃げたことを思うと、罪悪感を覚えました。竜人さまも鹿人が急に逃げ出して困惑しているかもしれません。
ですが、戻って竜人さまに謝りに行くほどわたしは命知らずではないのです。
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