第3話
その日の夕方、俺は急いで家に帰った。
早く帰らなきゃ、レイナが料理しちゃうからだ。
「おかえり、悠真~。今日の夕飯、ハンバーグにしようと思って」
……ほらな。
玄関を開けた瞬間、エプロン姿のレイナが迎えてくる。さっきまで“他人モード”だったくせに、この家の中ではまるでスイッチが切り替わったように、彼女は甘えてくる。
「俺、手伝うよ。言ってくれれば――」
「んー、いいの。悠真は座ってて。男の子は、こういうとき任せとけばいいんだよ?」
レイナはそう言って、くるっと背中を向けてキッチンへ戻っていく。
その背中が妙に……可愛くて、俺は居間の椅子に深く沈んだ。
――と、インターホンが鳴った。
「ん? 誰だろ……」
ドアを開けると、そこにいたのは、橘ほのかだった。
「悠真~。ノート貸してって言ったの、覚えてる? 今からいい?」
「あっ、うん……大丈夫だよ。ちょっと待ってて」
ほのかは、俺の幼なじみ。家が近くて、小中高ずっと同じ。
明るくて、誰にでも優しくて、でもちょっと察しが鋭いところがある。
(ヤバい……このタイミング……!)
焦った。完全に油断してた。
よりによって、今レイナが家にいる。しかもキッチンでハンバーグ作ってる。
「どうぞー、あがってあがって」
よりによって、母さんの声がそれに追い打ちをかける。
案の定、ほのかが玄関から上がると、すぐに気づいた。
「……あれ? 悠真、その……台所にいるの、誰?」
「あっ、それは――」
説明が追いつく前に、台所のドアが開いて、レイナが顔を出した。
「悠真、ソースの味見お願い……あっ」
その瞬間、空気が止まった。
ほのかが目を見開いてレイナを見つめ、レイナは明らかに戸惑ったように言葉を詰まらせた。
「……結城、さん?」
ほのかの声が、1オクターブ低くなった。
「なんで、悠真の家に……?」
「えっと、それは……っ」
レイナが言い淀む。
俺はもう限界だと思って、間に割って入った。
「レイナ、うちに居候することになったんだ。しばらくの間、事情があって……」
「へぇ、そうなんだ」
ほのかはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その目が冷静に全体を見渡していたのを、俺は見逃さなかった。
台所に並ぶ材料。レイナの私物。玄関に並んだスニーカー――全部、彼女は見ていた。
***
10分後。ノートを渡した後、玄関先まで送る。
「ありがと。じゃ、また明日ね」
「……うん。ごめんな、驚かせて」
「ううん、いいよ」
その笑顔は、普段より少しだけ薄かった。
「でも、ちょっとびっくりしたよ。あのレイナさんが、悠真の家で、料理しててさ」
「うん……俺も、まだ慣れないよ」
「ふふ、そうだよね。……ねえ、悠真」
「ん?」
「なにか隠してること、ないよね?」
その言葉に、心臓が一瞬止まりかけた。
「……え?」
「ううん、なんでもない。ただ、もし困ってることあったら、ちゃんと話してほしいなって思って」
優しい声。でもその中に、探るような気配が混じっていた。
「じゃあね。ハンバーグ、楽しんで」
そう言って、彼女は帰っていった。
***
「……悠真、大丈夫だった?」
リビングに戻ると、レイナが心配そうにこっちを見ていた。
エプロンの胸元をぎゅっと握りしめて、落ち着かない様子。
「ああ、大丈夫……たぶん」
「……そっか」
俺が席につくと、レイナが皿を出してきた。
「お待たせ。ハンバーグ、できたよ」
「……うまそう」
手間がかかったデミグラスソースの香り。焼き加減もちょうどいい。
だけど、食欲よりも気になるのは、レイナの顔だった。
いつもの明るさじゃない。どこか、不安げだった。
「……あの子、彼女?」
「ちがう。幼なじみなだけだよ」
「でも……優しそうだった」
「レイナだって、優しいじゃん」
その言葉に、彼女は小さく笑った。
「ありがと。でも……怖いんだ」
「え?」
「……悠真が、誰かにこの関係、知られたら嫌がるんじゃないかって」
「……」
「だってさ。あたし、“学校じゃ恐れられてるヤンキー”なんだよ?」
レイナの声が、ほんの少し震えていた。
その姿が、あまりにも儚くて。
俺は、気づいたらスプーンを置いて、彼女に言っていた。
「俺は……誰かに何か言われたって、レイナと一緒にいたこと、後悔なんかしないよ」
「……悠真」
「お前、料理うまいし、俺の部屋ちゃんと掃除してくれるし……正直、めちゃくちゃ助かってるし」
「ふふ、なにそれ、褒めてるの?」
「本気で言ってる」
レイナは、ようやく柔らかく笑った。
その笑顔を見て、俺はようやく息ができた気がした。
***
だけどその夜。
スマホの通知が鳴った。
【ほのか: ねえ悠真、明日、ちょっとだけ話せる?】
何かが、動き始めていた。
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