第21話30代パートナーのプレイするコンシューマーゲームの鑑賞と撮影という趣味について
PMDDに抗うつ薬でも強い部類に入るはずのミルタザピンをもってしても、あるいは基礎疾患の強い作用を持つ薬を用いても、全く太刀打ちできない。
自分より重いPMDD患者もいるにはいるのだろうが、最先端の研究をしているマルキパレスの医師にさえ「あなたの薬の調整は難しいですね」と言われる始末で、素人である私の手に負えようはずもない。
おまけに摂食障害やら、向精神薬による副作用やらで、月経期間が極めて不順状態に陥っていて、おそらくピルを飲むしかないのだろうと思ってはいても、体が受けつけないのだから仕方がない。
自ずと婦人科に行っても「何しに来たん?」という顔で効かない漢方薬を出されてからは、足が遠ざかってしまった。そうして医療につながっていても、その隙間からこぼれ落ちてしまう人も、きっと少なからずいるのだろうと思う。
私自身が女の肉体を煩わしいと思う最たる理由はこの重いPMDDと、起き上がれずに臥せることを余儀なくされる月経困難症の二つに尽きる。
かといって性自認は男でも女でもない。それなのにこうして肉体の檻に絡め取られることに、本当に辟易している。
紅茶だけを摂取し、何も食べず、女の肉体に縛られず、かといって男にもならずに生きていたいと思うが、そんな身勝手な欲望が叶うはずもない。いきおい私は吸血鬼を夢想する。
それは萩尾望都『ポーの一族』のアランであり、あるいは山本タカトの描く少年少女たちであり、あるいは吉田直『トリニティ・ブラッド』の僕っ娘少女皇帝セスであり、直近だとコード・ヴェインのイオということになるだろうか。大学時代に映画創成期の作品「吸血鬼ノスフェラトゥ」を観たのも懐かしい。
METAL GEAR SOLIDのヴァンプは本物の吸血鬼ではないにせよ、モティーフを借りているところは好感を持っている。
『ジョジョの奇妙な冒険』のディオには惹かれるところがそこまでなかったのが少し惜しい。もう少し線が細い青年の方が好みに合うのかもしれない。
そうした吸血鬼たちの文芸作品やサブカルチャーの作品を、思えばたくさん享受してきたなと思う。
彼らはさながら枯葉の敷き詰められた庭に眠っているように、寒い時期になるとその棺の中から身を横たえたまま、瞳を閉ざして現れる。
吸血鬼に性別の区分けはあるが、本来生殖を必要としない彼らは、その別も問わない存在とも言える。そうしたところも吸血鬼に惹かれる一因としてあるのかもしれない。
ノンバイナリーの吸血鬼の話を、どこかで書いてみたら面白いのかもしれないが、どうしても少年少女、美女や美青年といった表象の持つイメージに引っ張られてしまうのは、それが耽美的な存在だからなのだろう。ヘテロセクシュアルの人間にとっては、異性の吸血鬼はより魅力的に見えるのかもしれない。
吸血鬼モノというのは、異種族でもあると同時に、人間を脅かす存在でもあるので、物語の装置として話に奥行きや広がりが生まれやすい。脚本の腕さえ良ければ、どのような舞台で描かれるにせよ、安定して面白いものを作れるという背景もある。
自分自身が吸血鬼モノの作品を愛しながらも、作ろうとしてこなかったのは、その強烈にして強引なまでの物語の動力とパワーに、どこかでついていけなくなったからなのだろうと思う。
幼少期は重厚なファンタジー小説を好んだし、二十代になってからも、テン年代から2020年頃までの覇権アニメを怒涛の勢いで観たり、泉鏡花や谷崎潤一郎をはじめ、近代文学に傾倒したりして、物語の持つ飛躍に富んだ、パワフルな展開に魅了される気力があったが、三十代になり、短期間に集中してそのようなものに触れる元気がなくなってしまった。
それは年齢によるところもあるのかもしれないが、上に書いたように、持病が篤くなったからという理由が大きい。
今はパートナーの月に1作のペースでプレイする、死にゲーをはじめとしたコンシューマーゲームをひたすら鑑賞し、自分自身もとても緩やかなペースでルーンファクトリー4を進めているところだが、ゲームは流れている時間がアニメや映画よりもゆっくりなのが病身には合っていて、付き合いやすいジャンルなのだと思う。
スポーツで例えるならば、アニメや映画はひとときも目を離せないサッカー観戦で、ゲームは途中で目を離してもストーリーさえ押さえれば流れについていける野球を観ている感覚に近い。
私はYouTuberのゲーム実況は、フロムソフトウェア作品を愛好する、パートナーがシェアしてくれる、笑顔ニコさんのものを除いて全く観ないので、その体験と自分自身のゲームとの付き合いがイコールで結べるかどうかはわからないが。
とはいえ、先日SEKIRO2周クリア済みのパートナーと、YouTuberの笑顔ニコさんのSEKIRO動画を観ていて、両者の体験はまたそれぞれに違うのだなと感じたのだった。
たとえば私は、パートナーが1周目でプレイしている間に、舞台として出てくる水生村をさながら取材のようにiPhoneで撮りまくったのだが、YouTuberの動画で同じようなことをしようとしても、画面はYouTuberが動かすので、全く意のままにならず、移動などはカットされることが多い。
一方パートナーのプレイする画面を観ている間は、いくらでも好きなところを画面に収めることができる。
それはこの体験が一種の取材旅行体験にも似ていることを意味していて、単に映えるスポットを撮るというわけではなく、私はパートナーの動かすキャラクターの一挙手一投足や、出てくるセリフの字幕の文字を逐一撮る人間で、彼からは「記録魔だ」と呆れられている。
そうした写真の数々はどこかに載せることはなく、ただGoogle Photoにログとして残り、私はその中から然るべきものを選んで資料として創作に役立てているというわけだ。
写真を撮るということには作為が生まれ、それは受動的に動画を観るだけの行為とはまた違う、さらにゲームそのものをプレイするのともまた違う、取材旅行としての意味を持つ。
パートナーもフロムソフトウェアの作品は何周もプレイすることがあるが、多くの人がそうであるように、ほとんどの作品の場合は一回きりでプレイが終わる。
その一期一会を逃したくないという気持ちが、私の指をIPhoneのシャッターボタンに導くのだろう。
ゲームの背景美術や細やかな小物の美術は、AAAタイトルなどを筆頭として、極めて精緻に作り込まれているところも、私を魅了する理由となっている。
一応弁明しておくと、ゲームの設定資料集や美術書などはできるだけ買うようにしていて、SEKIROについてはパートナーの協力もあって、美術書やサウンドトラックを揃えた。
最も愛するMETAL GEAR SOLIDについては過去に遡ってシナリオブックや攻略本、MGSΔについてはファミ通をリアルタイムで買い集めてきた。
ゆくゆくはENDER LILIESのアートワークブックや、コードヴェイン、DEATH STRANDINGの美術書も揃えたいと思っているところだ。
今、パートナーはHorizon Zero Dawn Remasterを完走して、再びDARK SOULSの世界に戻り、DARK SOULS無印をプレイしている。その暗澹とした世界観に時折呑まれそうになりながら、来年のThe Duskbloodsの発売を待ち侘びているところだ。
Karl Böhm:Vienna Philharmonic Orchestra /Mozart: Symphonies #40&41
Khatia Buniatishvili/Mozart: Piano Concerto 20&23
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