第20話「オートマティックな言葉」に抗う─石原吉郎「耳鳴りのうた」に寄せて

 ここのところ、ネットで「筋が悪い」とか、「予後が悪い」とか、「シンプルに⚪︎⚪︎(多くの場合貶す意味合いの言葉がつづく)」というフレーズを見かけることが多くなった。

 私はXはもっぱらROM専として使っていて、主に検索機能を活用しているのだが、全く関係のない言葉でサーチしても、このような頭脳や思考を通過しない「オートマティックな言葉」とたびたび出会う。

 これらは他者を断罪し、あるいは「診断」という名目でレッテルを貼る、いわば極めて差別的な言葉だが、こうした言葉が氾濫していることと、石丸某や小泉某といったポピュリスト政治家が支持されるのとは不可分な関係にあるのだろうと思う。

 政治の話は一旦置いておくとしても、「オートマティックな言葉」をできるだけ使わないようにすべし、ということは、詩歌の世界ではよく言われる。実際のところ、私は詩文で華美な言葉は極力排するようにしている。それらはオートマティックに次の語句を連れてきてしまう。

 うろ覚えの歌詞の歌を、そらで歌っていても歌えるのは、その次に来る語句が自ずとわかるからだ。例えば「空の」と来たら、日本語歌詞の多くの場合、「青さ」や「果て」など、ある程度類推される言葉が来る。

 うろ覚えの歌詞でも次の語句を容易く予想して歌えるというのは、本質的にそれが詩ではないことを物語っている。

 詩は飛躍が必要で、そこにオートマティックな言葉が連なれば、地続きの意味が続くことになる。「空」はまだしも、「花」や「星」であれば、花は「咲く」「開く」、星は「光る」「降る」などになる。つまり歯の浮くような言葉は、続く言葉が限定されるのだ。詩はこれを超えなくてはならない。

 そうして私は「オートマティックな言葉」をできるだけ避けてきたつもりだが、それは詩作に限らない。本来思考を紡ぐことは、そうした断定的ないわゆる「構文」によって何かを断罪したり、診断したりするものではない。

 ある特定の対象を捉え、それをさまざまな視点から解きほぐすために言葉はある。

 「言語化」という言葉が叫ばれるようになって久しいし、私はこの言葉が生理的に受けつけないので、「言葉で表現すること」と言い換えるが、それは何も対象を決めつけることではない。

 多くの人が抱える「モヤモヤ」を「診断」するための「オートマティックな言葉」は、時に危険を伴う。

 政治の例はその最初に挙げられるが、政治から少し距離が離れた、もっと私的な領域にまでもこうした言葉が用いられ、それが他者を分断することにつながっていることに、私はブックライターの末座にいる身として強い危機感を覚える。

 思考とは本来遠回りをすることだ。先日まで読んでいた、戦時中にシベリア抑留の憂き目に遭った石原吉郎に「耳鳴りのうた」という詩がある。

 以下に省略を交えつつ、その一部を引用する。



 俺が忘れて来た男は

 例えば耳鳴りが好きだ

 耳鳴りのなかの たとえば

 小さな岬が好きだ

 火縄のようにいぶる匂いが好きで

 空はいつでも その男の

 こちら側にある

 風のように星がざわめく胸

 勲章のようにおれを恥じる男

 おれに耳鳴りがはじまるとき

 そのとき不意に

 その男がはじまる

 (…)

 おれが忘れてきた男は

 たとえば剥製の驢馬が好きだ

 たとえば赤毛のたてがみが好きだ

 銅鑼のような落日が好きだ

 苔へ背中をひき会わすように

 おれを未来へひき会わす男

 おれに耳鳴りがはじまるとき

 たぶんはじまるのはその男だが

 その男が不意にはじまる時

 さらにはじまる

 もうひとりの男がおり

 いっせいによみがえる男たちの

 血なまぐさい系列の果てで

 棒紅のように

 やさしく立つ塔がある

 (…)

石原吉郎「耳鳴りのうた」『石原吉郎詩集』現代詩文庫、1969年、pp26-27



 これは詩なので、本来の論理からはかけ離れているように見えるが、対象を捉え、そこから「たとえば」という言葉を用いて対象を限定し、「男」という存在を詳細に物語っていく。

 そしてその詩の対象の中心にあった「男」が、実は「男たち」の一部であったことが明かされる。この一連の流れは、飛躍とロジックによって裏打ちされていることがよくわかる。

 一種のミステリー小説のようにも読める展開がここにはあり、実際のところ思考を紡いでいくというのは、こうした段階を踏んで、対象を絞り、そこから理論を発展させていくという仕組みによって成り立っているのだと思う。

 だが、こうした過程を踏むことそのものを「ノイズ」と捉える向きが今の世の中では強いということを私は聞き齧ったのだった。

 それは読書離れが進んでいることを紹介するサンデー・モーニングの「風を読む」コーナーの公式YouTube動画で、最近話題の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を著した三宅香帆さんが語っていたことだった。

 段階を踏んで語っていくこと、他者の語りをじっと聞くということに、もはや多くの人々が耐えられなくなっているのだろう。

 YouTubeで多くのショート動画を流し見したり、倍速視聴で言葉が高速で流れていく環境に身を置いていれば、言葉は自ずと鴻毛こうもうのように軽くなる。そこでその軽い言葉、短い言葉で他者を断定する「構文」が用いられるのではないだろうか。

 キャッチーな言葉は耳馴染みが良いかもしれない。“JAPAN IS BACK”“MAGA”といったフレーズは人口に膾炙しやすいだろう。それらはほとんど頭脳を通過しない、直感的かつ語感のキャッチーさのみに重点を置いた言葉だからだ。

 しかし何へと日本は“BACK”しつつあるのか。

 その“BACK”した地点にあると思われている「栄光」は果たして本物で本質的なものなのか。それは誰かの犠牲の上に成り立った、虚ろな権力者の「栄光」に過ぎないのではないか。そうしたことを、遠回りな言葉によって考えなくてはならない。


Khatia Buniatishvili Original Playlist“The Silent Night Of Khatia”

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