第11話 2025.09.21 森田真生『僕たちはどう生きるか』を読む
疲れ切ってどうしようもない。ここのところ夜になると泣いてしまう。この三年間、泣きたくても泣けない日々が続いていたので、泣けるだけまだいいではないか、と思うのだけれど、さりとて連日泣くというのもなかなかつらい。
悲しみもあれば喜びもまたある。この日は前の晩にパートナーが私を元気づけようと、ケンタッキーを注文してくれて、一緒にいただきながらゲームの発売情報に関する動画をあれこれと観て過ごした。今は多くの言葉を費やすよりも、共に何か別のものを媒介として時間を分かち合う方がいいのだろうなと思う。
その翌日であるこの日の晩には、パートナーが余ったチキンでケンタッキー鍋を作ってくれた。前にも一度作ってくれたことがあったのだが、ケンタッキーのチキンの出汁が出て、その旨みがキャベツの柔らかさとよく合うのだ。
思えば、こうして食事を美味だと思えるようになったのも、ほんのここ数日のことで、それまでは拒食的な症状が出ていたり、抑うつが重くて、ものの味などほとんどわからなかったように思う。私は病状が重くなると味覚障害の症状も出るため、今年の夏場はとにかく食事のたびに消耗していたのだった。
そうして食事を美味しくいただけるだけ、まだありがたい。今読んでいる森田真生『僕たちはどう生きるか』に次のような一節がある。
「Geotrauma」と題された講義の主題は、「悲しみ(grief)」という人間の感情であった。「悲しみは人生の大きさをしている」と彼は語った。悲しみはちょうど一人の人間と同じ大きさをしている。だから悲しみの外に出て、これを俯瞰することはできない。人は、悲しみの渦中にいることしかできない。
「悲劇は、圧倒的に広大な喜劇の空間の、小さく、かぼそい断片にすぎない」ともモートンは語った。悲しみを抑え込み、不安に目を背け、悲劇から逃れようとするのではなく、悲しみのなかにあらゆる感情が混ざり合っていることを、ありのままにゆるす。まるで賑やかな生態系のように、希望と恐怖と痛みと怒りと喜びと笑いがひしめき合う。これこそ「喜劇(comedy)」ではないか、と。
森田真生『僕たちはどう生きるか めぐる季節と「再生」の物語」集英社、2024年、p130
まさにこの言葉は、今の私が何よりも欲する言葉そのものだった。難治性の慢性疾患を患い、闘病して十余年になり、その疲れも出ている中で、実家との別離や、義両親の離婚をほとんど間を空けずに経験することになった身にとって、2022年からの一連の出来事は、ただただ大きな痛苦をもたらすものだった。
この間気が休まる日は一日たりともなかったし、2022年に生まれてまもなく我が家にやってきた、キジシロの愛猫・冴ゆの存在がなかったら、私は今よりなおつらかったかもしれない。
今年に入ってからは持病の再発もあり、今なお困難はつづいているが、その悲しみの日々の中にも、冴ゆのすこやかな寝姿があり、あるいはパートナーと分かち合った夜の酒席があった。
ただただ無益で、虚しいばかりの日々だと思ってきたし、今もその虚しさが埋められることはない。ただ、その過程でパートナーは「エルデンリング」「SEKIEO」「ダークソウル」「黒神話:悟空」をはじめとして、数々の死にゲーと出会い、それらをすべて踏破し、私はモダンジャズと出会い直した。
パートナーは死にゲーの中にしか純粋なものはないと語っていたが、私自身はモダンジャズの中にしか人間の本質はないと思ってしまう。だが、そうして極まった人間の技巧のみを是とするのは、やはりどこか逃避的な意味合いを強く持っているのかもしれない。
「悲しみを抑え込み、不安に目を背け、悲劇から逃れようとする」という心の動きは、自分自身にも今まさに直面している問題であって、それらの現実と対峙するために私は言葉を編んできたのではなかったか、と改めて突きつけられた思いがしたのだった。
眠れない夜、私はひたすらに文章を書き綴ってきた。時には一晩に一万字を超える夜も度々あった。そうして自分なりに言葉によって、乗り越え難い喪失の悲しみと、迫り来る不安とに、輪郭を与えようとしていたのではなかったか。
この本はコロナ禍の真っ只中に書かれたものだが、非常に今日的な意味合いを強く持つ一冊で、今年読んでよかった本の中に間違いなく入るだろうと思う。
生物の多様性をテーマとした内容となっていて、その生物の中には人間のみならず動植物が含まれ、どちらかというと後者の色合いの濃い作品となっているが、読んでいくうちに、均質的な「Japanese First」な今の社会に対して、警鐘を鳴らす一作であるとも読めるように思う。
それはコロナ禍における日本社会をベースとした本である以上は、本来の趣旨からは少し逸れるだろうが、それでもそのシチュエーションの特殊性を超えた普遍性をこの本はきちんと担保している。
私はさまざまな経緯があって、離別の悲しみの只中にいる義母にこの本を勧めたが、できれば子育てをしている友人にも勧めたいと考えている。
私自身には子どもがいないが、著者自身の親としての視点がふんだんに詰まった一作でもあるため、子育てをしている人には、私以上に響くものがあるかもしれない。
こうした啓蒙的な書物が、より広く読まれることを心から願うと共に、今の閉塞する社会に向けて、あるいは自分自身の根深い悲しみに向けて、どのように対峙し、時に対話を模索すべきなのか、改めて考える契機としたいと思う。
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