サックスブルーの髪飾り
木林シルワ
第1話 教室
私は特に理由も無く教室にいた。
太陽が南に昇り、暑くジメジメした空気が満ちた夏休みの教室。
生徒はおろか、教師や用務員、点検の業者もいない。
私はただ一人、窓際の最後列に座っていた。
僅かに開けられた窓から、いやにベタつく潮風が流れ込んでくる。
髪が風に揺れ、軽く流していた前髪が目を覆う。
鬱陶しく感じてすぐさま髪を整えるが、再び吹き込んだ風に無駄にされた。
「めんどうな」
私は小さく息を吐いて椅子から立ち上がった。
汗ばむ程の夏の陽気に反して、体は妙に軽かった。
不思議な感覚を覚えるのと同時に、体勢を崩してか、私は床に倒れ込んでしまった。
痛みは無い。
上手く受け身を取れたのだろう。
そのまま腕を広げて横になる。
髪は広がり、私の自慢の美しい黒髪の一本一本が日に照らされ、キューティクルの輝きを見せる。
私は髪の手入れだけは怠らない。
どんなに寝坊しようと、どんなに大切な用事が迫っていようと、どんなに気力が無かろうと、髪の手入れだけは時間をかけて完璧にこなす。
この美しい黒髪の維持は、何よりも大切なことなのだ。
私の親友は、私の髪を褒めてくれた。
綺麗だね。
さらさらだね。
長いのに、枝毛が一本もないね。
風に揺られるその髪、すっごく可愛いよ。
親友はよく私にくっついてくる。
朝のホームルーム前、私の元に駆け寄って、ニコニコで髪を結ってくれる。
休み時間、私の膝に乗っかっては、手で髪をするすると
昼休み、昼食を食べ終わると親友の膝に促され、私がそこに座ると抱きついて匂いを嗅いでくる。
親友は私の髪が好きだった。
だから私もこの髪が好きだ。
だから手入れを欠かさない。
面倒だと思いつつも、親友と私の好きな髪に時間をかけるのは苦ではなかった。
でも何かが違う気がする。
私が好きだったのは、本当に好きだったのは髪の方じゃなくて──
ふと意識を現在に戻した。
少し強い風が窓から入り込み、私の髪を拐うかのように教室の右方に吹き流す。
私は再び前髪を整えた。
「めんどうな」
隣の棟から、微かに楽器の音が聞こえてくる。
力強く壮大ながらも、美しく繊細な吹奏楽部の奏でる音色が、私の鼓膜をほんのり揺らす。
時刻は少し進んでお昼過ぎ。
昼食を挟んだ部員が、演奏を再開したのだろう。
遠くから聞こえる海の波の音と、演奏が重なり、心地よい調和を生んでいる。
嫌な夏の暑さの中で、微妙な涼しさが私を包み込む、そんな感じがした。
この音がそう感じさせるのか、それとも冷えた床が原因なのか、そんな事を考えるのは無粋だった。
暫くして演奏が止むと、さっきは気にならなかったはずの、時計の秒針の進む音が耳に届く。
一秒、また一秒と機械的に時を刻むその音は、温かさこそ感じないものの、そこはかとない安心感のようなものを孕んでいた。
感情や自然現象には無い、確かなものが、その音にはあった。
それを良しとするかしないかは、聞き手次第である。
私のことなんて気にせずに、時間は経つ。
教室に寝ているのは、机や椅子の影と私だけだ。
そこで、立っているもののひとつが私を驚かせた。
いや、立ったという方が正しいか。
それはドアを開ける音だった。
ガラガラと元気な音が、静かな教室の床を震わせる。
そういった意味では、私にとってドアの音は床に寝ているのかもしれない。
この音だけで、私は誰がやって来たのか分かった。
私の親友──
パタパタと軽快な足音が近づいてくる。
私は床に寝たままでいた。
美音は私がさっきまで座っていた席の前で足を止めると、窓のサッシに置かれた小さなガラスの花瓶の花を取り替えた。
花瓶は、学校の前の道路を挟んで少し行くと広がる、海のようであった。
青く透き通ったガラスで作られたそれは、陽の光を机に通して、綺麗な青い影を生んでいた。
その青い影は瓶内を満たす水によって、ゆらゆらと揺らめいて見える。
まるで机に海をこぼしたかのような光景であった。
「
美音は私の名を呼んだ。
こちらを一瞥もせず、視線はただひたすらに花に向けられている。
私が腕を大きく広げて、一人教室に寝そべっているというのに、見向きもしない。
「……なに」
少し間を空けて返事をするが、やはり私を見ようとはしないようだった。
美音はその真っ直ぐな目を、小さな海を穿つ一輪の花に向けるばかりだ。
美音が私を見てくれないのは、私が人を殺したからだろうか。
そう、私は人を殺した。
大切な、とても大切な人を。
理由なんてなかった。
動機なんてなかった。
ただ、要らないと思った。
ただそれだけだった。
後悔は無い、と言えば嘘になるけれど、そんなに悪い感じはしなかった。
でも、美音は私を見てくれなくなった。
この事に関しては大分ショックだ。
見たくないのか、見たいのに見られないのか。
それは定かではない。
「ごめんね」
今のは誰が言ったのだろうか。
分からなかった。
私が言ったような気もするし、美音が言ったような気もする。
思いがけずハモったのかもしれない。
でも声が重なったようには聞こえなかった。
波と演奏のように、重なってはいなかった。
美音は傍の机の中を漁っていた。
しかしすぐに、ハッと驚いたような顔をして、時計に目を向けた。
時刻は十二時半を回っていた。
吹奏楽部の練習に戻らないといけない時間になったらしい。
美音は取り替えて手に持っている枯れた花を、ポケットに突っ込むと、教室から駆けて出ていった。
再び元気な音で、ドアが閉められる。
演奏一つ終わらせて抜けてくるとは。
花の交換なんて、昼休みにでも出来ただろうに。
でも、そんなところも美音らしかった。
「まあいっか」
美音が私を見るチャンスなんてものはいくらでもある。
まだ高校二年の夏である。
卒業までの時間はたっぷりだ。
私は気長にここで待つことにする。
ふと私は疑問に思った。
何故「ここ」なのだろうか、と。
特に理由もなくと言ったが、そうでもないように思う。
私は、何か明確な目的があってここにいるはずなのだ。
なんだろうか。
美音と何か関係があった気がする。
とても大切な、それでいて手放したい、何かがあってここにいるはずだ。
何か、思い残しのような、モヤモヤとしたものが心に残留している。
「でもまあ、いっか」
潮風がまた私の前髪を崩した。
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