第31話 退院

 それから一週間して、私は退院の日を迎えた。


 まだ走れるわけではないけれど、入院する程でもない。これからは定期的にリハビリに通うことになる。最初は週一日、問題なければ月一回に減って、今の感じだと半年以内には完治するらしい。


「お世話になりました」


 お母さんと二人で先生や看護師さんに別れの挨拶をする。病院の人たちには入院中とてもお世話になった。上手に歩けなかった時は励ましてくれ、私が暇そうにしていたら話し相手になってくれた。相手にとったら沢山いる患者の一人なのに、こんなに丁寧に対応してもらえて感謝しかない。


 お母さんくらいの看護師さんが目を細めて言う。


「本当によかったです。夏休みいっぱいは激しい運動を控えて、少しずつ焦らずにね」

「はい」


 これで夢と同じ現実世界に戻るんだ。


 私の体はまだ戻れていないけど。


 病院から出ると、お母さんが予約したタクシーが停まっていた。電車で平気なのに、無理しちゃいけないんだって。


 荷物はボストンバッグ一つ。それもお母さんが持ってくれた。


「咲菜が持てる」

「お母さんが持ちたいの」


 持ちたいって何。お母さんは優しさをごまかすために変なことを言う。別にそのまま言ってくれればいいのに。


 私は手持無沙汰で窓の外をぼんやり眺めた。病室から見える景色とまるで違う。やっと日常に戻った気がする。これからまた私が始まるんだ。


 最寄り駅前でアイス屋さんが見えた。買いたかったけど、言えずに過ぎていく。そして数分して、自宅に着いた。


「ただいまぁ」


 誰もいない家に声をかけてみる。後ろにいたお母さんが「おかえり」と言った。このくだり、お父さんともしたな。


「お母さん、荷物の洗濯物回しちゃうね。それも洗うからパジャマに着替えちゃって」

「また外出るかもよ」

「そしたら、また新しいの着ていいから」


 いちおう病院帰りだからね。大人しく着替えて服を洗濯機に放り込む。このパジャマも久しぶり。


 部屋に行ってベッドに寝転がる。病院のベッドとは柔らかさも広さも違う。やっぱり家が落ち着く。


「ん~~~」


 両腕を伸ばして伸びをする。左側には電子ピアノ。どうせ暇だし、夏休みの宿題はできるだけでいいって言われているから、ピアノでも弾こう。


 近寄ってみると、ほとんど埃は無い。ピアノって二日掃除しないだけで結構埃付くんだよね。お母さん、私がいない間も掃除してくれてたんだ。


 ポーン。


 電源を入れて、ラの音を人差し指で押してみる。懐かしい音が耳を擽った。


「発声だけしてみようかな」


 個室じゃなかったので、病院では歌うことができなかった。毎日歌っていた私にはかなりのストレスだった。でも、これからは違う。


 背筋を伸ばして喉仏を下げる。声は頭の上から出す。


「あー」


 試しにラの音を出してみた。私はそのまま次の音を出せずに立ち尽くした。


 私は絶望した。


 今聞こえた声が、記憶の中のものと全く違っていたからだ。


「うそ」


 喉元に手のひらを当てる。震えながら、もう一度声を出してみた。結果は同じだった。


 なんということだ。一か月半寝ていたため、今まで培ってきた声はすっかり鳴りを潜めてしまった。


 その場に蹲って顔を膝に埋める。肩が揺れ、ポロポロと涙が零れた。


「声、出ないよぉ……ッ」


 私の声が出せない。


 こんなの、私じゃない。


 嫌だ。


 いやだ!


 両手を振り上げる。それはピアノに落ちることはなく、ゆるゆると萎んでいった。


 こうなったのは私が怠けていたわけではない。でも、ピアノの所為でもない。悪いことをしていないものに当たるなんて、分別の付かない赤ちゃんしか許されないことだ。


 鍵盤を撫でる。五歳からの私の相棒。ピアノの側面には、部屋に運ぶ時にお父さんが付けた擦り傷がある。あの時はちょっと泣いちゃった。お父さんだってわざとじゃないのにね。


 また一からじゃなくて、マイナスになっちゃった。

 どうしよう、こんなんじゃソロなんて夢のまた夢だ。

 そもそも、部活に復帰できるのだろうか。


 それすら、私には空の雲だ。


「明日からにしよ」


 ピアノの蓋を閉める。今日は退院したばかりでゆっくりしてと言われている。余計な体力を使わない方がいい。


 譜面台の横に飾ってあるムムちゃんをぎゅうと抱きしめる。


「ムムちゃん、どうしたらいい?」


 返事は無い。当たり前か。


 ムムちゃんとベッドを背もたれにして座る。小さい頃から一緒だからだいぶ毛並みがボサボサになってきた。今度洗って干そう。


「十六日かぁ」


 あれから一週間が過ぎた。私は進めているのかな。スムーズに歩けるようになった。でも、声は戻っていない。


「悲しい」


 まるで、人魚姫になった気分。私は歌えなくなっただけだから、人魚姫に失礼か。でも、歌えないなんて、私じゃない。

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