ベラスケスの青い星

瑞崎はる

画家と小人

 スペインの歴史は血と金に彩られている。


 1492年、スペイン王国はイベリア半島を征服した。イサベル女王はユダヤ教徒追放令を出し、キリスト教に改宗しないユダヤ人に国外退去を命じた。その上で、キリスト教に改宗したユダヤ人【コンベルソ】達のことをマラーノと呼び、侮蔑した。


 ◆


 現スペイン王・フェリペ4世に仕える宮廷道化師のセビは、画家のベラスケスに呼び止められた。


「セバスティアン・デ・モーラ、君はどうして王に気に入られているの?」


「へ?」


 見慣れない若者からの思いがけない質問に、奴隷である小人のセビは面食らった。道化師は滑稽な娯楽を皆に提供する笑い者だ。揶揄われたり、嘲笑されたりすることは多いが、こんな風に真面目に話しかけられることには慣れていない。


「宮廷道化師はいっぱいいるのに、王の一番のお気に入りは君だよね?」


 ベラスケスは真剣な面持ちでセビを見ている。

 セビはその様子を眺めて、思い当たった。この青年画家は最近、王宮に出入りし始めたのだろう。王のお気に入りになりたくて、藁をも掴む思いなのだろう。この国スペインは富んでいて豊かだ。王は呆れた女好きだが、その一方で射撃と乗馬が得意で、文学も芸術も愛する教養人だ。飼っている道化師も多いが、お抱え画家も山ほどいる。ライバルを出し抜いて、富と権力を手にするには、不気味で哀れな小さな蛇サバンディハと蔑まれる道化師に教えを請うのも、やぶさかでない、と。


「タダで教える訳にはいかねぇな」


 面白くなってきて、ニヤニヤしながらのたまったセビに対し、ベラスケスは失礼だと怒るでもなく「確かにそうだ」と応じた。


 …やっぱり、コイツは変わっている。


 セビは興味津々でベラスケスが何を言い出すのか見守ることにする。ベラスケスは少し思案した後、茶目っ気のある笑みを浮かべ、驚くべき提案をしてきた。


「すまないが、この通り、私はあまり裕福じゃないんだ。出来ることは絵を描くことだけだ。君の肖像を描くよ。王より先に」


「は!?」


「ほんとは王の依頼を先に受けたんだけどね。ついさっき」


 セビは思わず目を剥いた。それは王に対する不敬じゃないのか。それだけじゃない。肖像画はただの絵ではない。王や貴族の特権であって、卑しい奴隷の小人を描くのは正気の沙汰じゃない。


「タダで教えてもらう代わりにタダで描くよ」


「えっ」



 ―――――それが二人の出会いだった。



 ◆◆


 ベラスケスこと、ディエゴ・ベラスケスは、画家の師匠に弟子入りするまでは、祖母、兄とスペイン南部のセビーリャで暮らしていたという。下級貴族の出だったという父も母も流行り病で亡くなったらしい。詳しくは語らなかったが、王のお気に入りの宮廷画家になりたいのも、その辺りに理由がありそうだった。


「どうかな?」


 三日後。

 描きかけのセビの絵を見て欲しい、とベラスケスが訪ねてきた。翌日に描き始め、もう下塗りを始めたという。若く才能あるベラスケスの仕事ぶりはとても速かった。工房に着き、ベラスケスの絵を目にしたセビは驚いた。


「…俺は、アンタの目にはこんな風に映っているのか」


 思わず、ため息が出る。


「気に入らない?」


「いいや」


 ベラスケスの人となりを知るにつれ、セビはその才能と誠実さに惹かれるようになった。ベラスケスが描き出したセビの姿に嘘偽りは無い。


「俺は手も足も短い。醜い姿だと思っていたが」


 小人のセビは、これまでに容姿を褒められたことはない。子供のように短く丸っこい手足は、確かに、実際のそのままに描かれていた。

 でも、それにしても、この絵の中の自分は醜くも卑しくもない。むしろ、気品さえ感じられる…そのことに、胸が熱くなった。


「そう? 君はとても知性的だし、誇りを持っている。とてもいい面構えをしている。それに…信用できる人だと思える。きっと、そんなところが気に入られて、王や王弟のお側に置いてもらえたんだろうね」


 セビは、ベラスケスの洞察力にも舌を巻いた。


 …そう。俺がフェリペ4世のお気に入りになれたのは、俺が人の心の動きを把握することに長けているから。そして、嘘をつけないからだ。良くも悪くも。


「こっちも見てよ」


 ベラスケスはセビに、もう一つの肖像画を示した。


「おい。これは…」


 それは、セビと会う前に依頼を受けていたと言っていたスペイン王・フェリペ4世の描きかけの肖像画だった。


「どう思う?」


「どう、って…」


 セビは悪びれなく訊いて来るベラスケスに呆れた。残念ながら、セビの主のスペイン王は、あまり容貌は良くなく、写実的な絵の天才であるベラスケスは、王の顔の負の特徴も忠実に描き出していた。


「彼は高貴だけど、ちょっと締まりのない顔なんだよね。それに、自信がないようにも見える。善良だとは思うんだけど」


 またしても、ベラスケスはフェリペ4世の内面を正確に探り当てていた。フェリペ4世には大きなコンプレックスがあった。女にだらしなく、自分に自信が持てないのもその所為せいだ。何かにつけ落ち込みがちな王を、セビが笑い飛ばしてやることで、王は王自身を受け入れ、開き直ることが出来る。


「ちゃんと描けてるかな?」


 ベラスケスは念を押すように再び問うた。


 …王が気に入るかじゃなく、正しく描けてるかを重視するのか。


 セビは愉快な気持ちで、「そっくりだ」と、ベラスケスにけ合う。


 …この男も俺と同じなのか。自分に正直で、嘘をつけない。


「対象を正しく見る、描くってのはいい。俺も真実を歪めて誤魔化ごまかすのは好かん。けどな、ソイツに自信がないことまで見通せたんなら、自信をつけさせてやりゃいいじゃねぇか」


「…自信?」


 ベラスケスは怪訝な顔をする。そして、「君の見解を教えてくれ」と、セビに促した。


「フェリペ4世はな、宰相のオリバーレス公伯爵に、偉大だが厳格だった祖父・フェリペ2世と何かにつけて比べられて、うんざりしてる。だがな、乗馬の腕はフェリペ4世の方があの人でなしの祖父じいさんより上だ。ありのままでいいから優れたところに光を当ててやれ」


「光を…」


「そう。明日は狩りの予定らしいぜ。当然、馬に乗る」


「じゃ、明日お伺いして、馬上の王を描こうかな」


「そうしな。健闘を祈ってるぜ」


 ベラスケスは嬉しそうに何度もお礼を言った。そんな若い画家の姿を見ながら、セビは、フェリペ4世が、裏表の無いディエゴ・ベラスケスを気に入り、重用するであろうことを確信していた。


 ◆◆◆


 才能あるベラスケスは、フェリペ4世のお気に入り画家となった。微力ながら、その手助けをしたセビは、その後もベラスケスの気のおけない友人として交流が続いている。時々、工房に呼ばれ、王や貴族の近況や絵についての意見を求められるようになっていた。


「前から聞こうと思ってたんだが…」


 セビにはずっと気になっている絵があった。

 一つは、卵を調理している横顔の老婆、その左側にメロンとワイン瓶を持った少年が立っている絵だ。まるで生きているような現実感すら漂う。その卓越した筆致には、ベラスケスのたぐいまれな才能が遺憾無く発揮されていた。


「これはアンタの祖母ばあさんと兄貴か?」


「そうだよ」


「この二人は殺された? アンタだけ逃げた…?」


 セビは直感的に思い浮かんだことを口にしてから、くんじゃなかったと後悔した。ベラスケスは無表情で静かに問うた。


「なぜ、そんなことを訊くの?」


 とても静謐な絵だった。人物にこそ光が当たっているが、絵全体を覆う闇に、今にも呑まれてしまいそうに思えた。身内を描いたにも関わらず、親しみや温かさが感じられない。むしろ、受け取った感情は哀しみと苦しみ。


 …心の痛み、か。


 キリスト教において、【卵】は【復活】の意味を持つ。鳥が殻を破って生まれるように、キリストが死んだ後、再び墓から出て蘇った奇跡ミラクルを象徴している。しかし…


「殻を割って煮た卵はもう復活できないだろう。絵の中の三つの卵のうち、生きているのは祖母ばあさんの握っている一つだけだ」


 ベラスケスはぎこちなく微笑むと、僅かに首を傾げた。


「この絵は現実味があるとか、庶民の生活が感じられるって、よく褒められるけど、卵に着眼したのは君が初めてだ」


「そうか? 卑しい小人だから、食べ物に目がいくのかもな」


「君は卑しくなんかないよ。人が能力や努力で得たものを、誰かから譲り受けた出自や地位や宗教の違いを盾にして、土足で荒らして、我が物顔で奪っていくような奴等の方がよほど卑しいんじゃないかな」


 何でもないように、さらっと流したベラスケスだったが、普段穏やかな彼にしては珍しく強い感情が見え隠れしていた。


 …確か、コイツは【セビーリャ】にいた、って言ってたな。


 セビは、その地セビーリャにまつわる血塗られた歴史を知っている。絵の中の老婆は気遣うように少年の方を見ていた。一方の少年は絵の外に目を逸らし、警戒しているようにも、こちらに注意を促しているようにも見える。描き手、弟・ベラスケスに…?


 …まさか、な。


「なぁ。こっちの水売りの絵なんだが、この水の入ったグラスは…」


 セビがもう一つの絵について、気になったことを尋ねかけたところで、ベラスケスは申し訳なさそうに質問を遮った。


「セビ。すまないが、そろそろ、頼まれていた肖像画の続きを描きたいんだ。今日はもう帰ってくれないかな」


「あぁ…またな」


 セビがベラスケスの頼みをあっさり了承したことで、ベラスケスはほっとしたようだった。「またね」と、いつものように扉の近くまで案内し、セビが遠く見えなくなるまで見送ってくれた。


 ◆◆◆◆



 ―――――【セビーリャの水売り】の絵。



 セビが気になっていたのは、水売りの男と少年の間にある冷えた水をたたえた瑞々しいグラスだ。あの絵の中で最も美しく、心惹かれるモチーフだった。


 …あれは、高価な【ヴェネツィアンガラス】だ。


 そのことが妙に心に引っ掛かる。町の水売りが使うカップは安物の銅製か陶器が一般的だ。絵の下側にある水を貯めている壺が、どこにでもあるような安価な素焼きの壺なのに、客に使い回すカップだけが、貴族でも手に入りにくいような高級品なのは釈然としない。


 …それに、水のグラスに沈めた【いちじく】。


 いちじくを水に入れると【毒消し】の効能があると聞いたことがある。そう言えば、ヴェネツィアンガラスも、熟練した職人が精魂込めた非常に薄いグラスは【毒を入れると割れる】という逸話を聞いたことがあった。


 …毒殺を警戒しているのか?


 しかし、それにしては、水売りの老人に悪意を全く感じない。素朴で穏やかなように見受けられる。二人の後ろで水を飲んでいる男にも危機感は見当たらない。【復活できない卵】に【毒消し】。それに…



 ―――――【セビーリャ】。



 セビはふと思いついた考えに身震いした。

 セビーリャという土地には多くの血が流れている。



 ―――――【ユダヤ人豚たち】の。



 ユダヤ人には商才があった。キリスト教とイスラム教の間で上手く立ち回って交渉し、富や財を成し、手に入れたお金で【貴族】の地位を買った。そんなユダヤ人の成功と共に、キリスト教徒の間では、ユダヤ人がずる賢く、狡猾で、荒稼ぎするイメージと、それに対する不満と怒りがじわじわと浸透していった。

 やがて、キリスト教がイベリア半島で異教を排除し、国土回復運動レコンキスタを押し進めるのと、時を同じくして、セビーリャでは黒死病ペストが猛威を振るった。


 …黒死病ペストはユダヤ人が流行らせた。


 ユダヤ人は黒死病では死なない。ユダヤ人がキリスト教徒を殺害するために、井戸に毒を投げ込んだという噂が、キリスト教徒の間で流布していた。ユダヤ人への憎悪、貧困への不満、黒死病への恐怖、それらの入り混じった感情をきっかけに、セビーリャではユダヤ人が迫害と虐殺の対象になったのだった。


 …この絵の三人は改宗ユダヤ人コンベルソなのか?


 井戸水には毒が入っている。それを知っていたから、黒死病にならないように、いちじくで毒を消し、ヴェネツィアンガラスで安全を確認してから、水を飲んでいたのだろうか。もし、そうならば、この絵の中の少年はユダヤ人であり、必然的に弟のベラスケスもユダヤ人ということになる。


 …あのベラスケスがユダヤ人だって? 蔑むべきマラーノだと?


 混乱しながら、セビはベラスケスの祖母と兄が殺されたんじゃないかと告げた時のベラスケスの言動を思い出した。


 …あの時のベラスケスは不自然だった。感情を抑えているようにも見えた。


 やはり、ベラスケスの祖母と兄は、セビーリャで虐殺されたのだろうか。ベラスケスがスペイン王・フェリペ4世のお気に入りになろうとしたのは、スペインのキリスト教徒及び、その頂点に君臨するスペイン王家への【復讐】のためなのだろうか。


 …でも、ベラスケスは…


 セビは、あの日、ベラスケスの描いてくれた自分の肖像を取り出して眺めた。その絵はいつもセビの心を奮い立たせる。どんなに馬鹿にされても、貶められても、本当の自分はこんなにも誇り高い人間なのだ、と。ベラスケスの目は確かに真実を映しているのだから、と。


 …こんな絵を描く奴が、醜い感情に支配されるわけがない。俺は何があってもベラスケスを信じる。


 セビがベラスケスに、あの二枚の絵について尋ねることは二度となかった。


 だから。


 ベラスケスが命を落とすまで、真相はわからないままだった。

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