第十五章 複製の量産

第十五章 複製の量産


第一話 理科準備室にて


 放課後の校舎は静かだった。

理科室の奥、準備室で佐々木は黙々と明日の実験器具を並べていた。試薬瓶のラベルを確認し、ビーカーを丁寧に並べる。誰もいない静寂の中、彼は完全に作業に没頭していた。


 そのときだった。

後方の引き戸が、コ……コ……と音を立てて、わずかに動いた。

だが佐々木は気づかない。

棚に手を伸ばし、リトマス紙の残量を確かめながら、ふと背中に誰かの視線を感じた。


「……?」

振り返った佐々木の目に映ったのは、ひとりの女生徒。


 白鷺ユリ。

彼女の名前は、すぐに思い浮かんだ。

教え子ではない。まだ一年生。だが、その名と姿を知らぬ者は、職員室にはいない。               入学式の直後から男子生徒の話題を独占し、教員たちの間でも「美しすぎる」とさえ囁かれていた存在。


「どうした? なにか用か?」

「先生。お聞きしたいことがあって」

その声は滑らかで柔らかく、けれどどこか底知れぬものを含んでいた。

「ん? 君は……一年の…?」


「はい。二組の白鷺です」

「あ、そうだ、そうだ、白鷺さん。 で? 質問って?」

「先生って、血液のことってお詳しいですか?」


「血液……? まあな、化学教師ではあるが、生物の基礎も教える資格はある。どうかしたか?」

「そうなんですね……じゃあ、助けてもらえるかも」

ユリは一歩、佐々木に近づいた。


(……近い)

空気がわずかに揺れる距離。

そして、もう一歩。息がかかるほどの間合い。

一瞬、佐々木の喉が鳴った。呼吸が浅くなる。

目の前の少女は、年齢を感じさせない何かを纏っていた。


「君……ちょっと、距離を……」

言い終わるよりも早く、ユリの顔が近づいた。

「え…?」

唇が、重なった。

一瞬の、接触。 佐々木の動きが止まる。


(なんだ? 身体が、動かない。自由がきかない)

佐々木の塞がれた口に滑らかな甘い湿りがゆっくりと入ってくる。


(ん?おい、やめろ)

ユリは佐々木の頬を両手で押さえて、離さない。

口いっぱいに何かが侵入してくる感覚に襲われる。

(舌じゃない。長すぎる)


 佐々木は驚愕し、ユリの肩を押して離した。

「な、なにをするんだっ……冗談はやめろ!」

「先生、冗談じゃないわ。……私には、あなたの助けが必要なの」

「わけが分からん……君、もう帰りなさい!」


 ユリは、にこりともせず、ただ一言。

「ありがとう、先生。このことは……内緒にしておきますから。安心して」

「……もう、いい。出ていけ……!」


 くるりと身を翻し、ユリは扉を静かに開け、すべてがなかったかのように廊下へと姿を消した。


 取り残された佐々木は、ぽかんとしたまま、唇に指を当てた。

その場に残る香りと、少女の異様な空気が、何度も脳内で反芻された。


(いまのは……なんだったんだ……?)

彼の理性は、「ただの出来事」に処理しようとしていた。

だが胸の奥では、説明のつかない不安がじわりと広がっていた。


第二話 タワーマンションにて


 ユリの唇の感触が、まだ残っていた。

薄い膜のように、自分の皮膚に貼りついて離れない。

あの視線、あの匂い、あの距離感――どれも、異様だった。


「……なんだったんだ、あれは……?」

夜の幹線道路を走る車の中、佐々木は窓越しに光る信号をぼんやり見つめながら呟いた。

「今時の高校生って……冗談にしても、危なすぎるだろ……淫行で訴えられたら俺は終わりだ……まさか、罠か……?」

言いながら、後部座席を何度もミラーで確認する自分がいた。


 自意識過剰? いや、ただの恐怖だった。

40分後、タワーマンションに到着。

高層階の自宅に戻った佐々木は、グレージュのレザーソファに深く体を沈める。

間接照明が穏やかな光を放ち、空調は快適そのもの。


 だが――落ち着かない。

カチャ……

どこかで音がした。

洗面所の方から、小さな物音。

水の跳ねるような気配。佐々木の鼓動が一気に跳ね上がる。


「……誰かいるのか?」

無意識にそう呟く。

当然、返事はない。

いや、返事があったら、それはそれで恐怖だ。


「……ふざけるなよ……誰だ……?」

ゆっくりと立ち上がり、洗面所へ向かう。

白い廊下の奥、浴室の扉がわずかに開いていた。

その隙間から――何か、こちらを見ていた。


 ガッと扉を開けた佐々木は、

そこにいた“それ”を見て、息が止まった。

それは、自分だった。


裸の、自分。


 こちらを無表情で見ている。

体格も髪型も、腕のホクロの位置までも全く同じ。

だが、目だけが違った。

何の感情もない空洞。獣の目。


「な……ん……で……」

声にならない。

腰から崩れ落ち、尻餅をついた。

手が震えて止まらない。

複製の“佐々木”は無言のまま、洗面台の上に置かれた歯ブラシを手に取ると――

何の躊躇もなく、それを柄の側で佐々木の左目に突き刺した。


「ぎゃあああああああああッ――!」

叫びが反響し、壁が振動するほどの音が鳴り響く。

だが、それは誰にも届かない。

 次の瞬間、“佐々木”は膝をついた佐々木の首を両手で掴み、力任せに締め上げる。

喉が鳴り、目が見開かれ、四肢が無様に動いたあと、沈黙が訪れた。


静かになった洗面所。

“佐々木”はもう一人の佐々木の死体を、黙々と浴室内へ引きずり込む。


 数十分後――

血まみれの裸の佐々木が浴室から出てきた。

手には小分けされたビニール袋がいくつも握られている。

ひとつひとつ丁寧に冷蔵庫の中へ収めていく。

その行動には一切の躊躇も、感情もなかった。

ただ、“保存する”という本能的な目的だけ。


 最後に、キッチンカウンターへと運ばれた丸い物体。

それはスイカのような形をしていたが、

その上には、柄の側を突き刺された歯ブラシが深く刺さっていた。


 血の滴るその“果実”を眺めながら、

偽物の佐々木は、初めて微笑んだ。


第三話 ユリの夢 【分離の兆し】


 闇。

重たい水の底のような空間に、私は立っていた。

遠くで、何かが動いている気配がする。

ぼんやりと揺れる光の中に、ユリがいた。

白いワンピースがゆらゆらと揺れていた。

背を向けている。


 私が声をかけても、振り返らない。

「ユリ……ねえ、聞こえる?」

何も返ってこない。

「ユリ。あの男よ、覚えてるでしょ? 私たちをあんな目に遭わせた、あの男――」

語尾が薄く消えていくような感覚。

音すら届いていない気がした。

ユリはただ静かに前を見つめていた。

その姿は、どこか冷たく、美しく、孤独だった。


「違う……ねえ、こっちを見て。私たちは一緒だったはずよ。ずっと……ここで繋がってたじゃない」

私の声が、夢の中に滲んでいく。

まるで、水面に落としたインクのように、かき消えていく。

ユリの輪郭が、だんだん曖昧になっていく。


 ……いや、逆だった。

曖昧なのは私。

私の記憶、感情、存在――すべてが薄れていくのに、ユリだけが明瞭に、鮮やかに、くっきりとなっていく。


「どうして……どうしてなの? ユリ、あなたは私なんだよ。私の一部なの。忘れたの?」

私はユリに近づこうと足を踏み出すが、足元の感触がない。

滑って、沈んで、すり抜ける。

ユリがゆっくりとこちらを向いた。

けれどその瞳は――私を見ていなかった。


(……見えてない?)

(私の声も、記憶も、全部……消えてる?)

まるで夢の中で、“夢を見る者”が別人になったような錯覚。

ユリという存在が、自らの意思で目覚め、覚醒し、私を超えていこうとしている。


「やめて……待って……私は、私たちは……ひとつだったのよ……!」

叫ぼうとしても、声が届かない。

水の中で息を吐くように、言葉が泡になって漂うだけ。

ユリの姿は、ますます鮮明になっていく。

光の中心にいて、もう私を必要としていない。


 その背に、翼のような闇が揺れている。

私は、ただの“核”だったのかもしれない。

痛みの記憶、怒りの根源、目覚めの引き金――

だけど今、ユリは自分の足で歩き出している。

そして私は、夢の中の亡霊になりつつある。

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