第十四章 癒される渇き
第十四章 癒される渇き
第一話 血液
静かな夜だった。窓の外はどこか遠い世界のように見えて、今のユリにはどうでもよかった。
彼女は鏡の前に立つ。
白い。
肌が、まるで磨き上げた陶器のように、きめ細かくて冷たい。
(悪くない……)
頬に手を当てる。しっとりとして、少しだけ火照っているような感覚があった。血が巡っている証拠。生命の証。
――けれど、それは“自分”のものではない。
(血がいる)
脳裏に、あの夜の味が蘇る。
鉄のようで、甘くて、温かくて、魂の芯を貫いたあの感覚。
(定期的に……新鮮な血が。できれば“複製”の)
思考は冷静だった。あのあと、家にいた男――「父親」という名前だけの存在――の血を試した。でも、吐きそうなほどまずかった。腐ったような、重く淀んだ味。
(なにが違う?)
ユリは考える。
湊の家で味わった血は、甘美だった。
心が満たされていく感覚すらあった。
(若さ? 性別? 体質? ――血液型?)
ふと、健康診断の結果を思い出す。自分の血液型は、たしかAB型だったはず。だとすれば――
(A型、B型、O型。合わない血は、拒絶する……?)
鏡の中の自分が、にやりと口元を吊り上げた。
(やっぱり、そういうことも……“知ってる人間”が必要ね)
誰がいる?
誰なら、血や体のしくみに詳しい?
(――佐々木)
名前が浮かぶ。
化学の教員。年齢は四十代半ば。生徒に嫌われも好かれもせず、まるで空気のように学校に存在している男。だが、知識だけはある。
(あの男……使えるかも)
ユリは口元に、微笑のようなものを浮かべた。
それは優雅さと残酷さをあわせ持った、冷たい笑みだった。
(まずは――取り込む)
何気なく髪を整え、リップを塗り直す。
鏡の中の少女は、死の香りをまとう人形のように、美しかった。
(なかなか……面白くなってきた)
その呟きの裏には、
確かな“渇き”と、
ゆるぎない“目的”が潜んでいた。
第二話 尾行
校舎の影が長く伸びる放課後。
薄赤く染まり始めた空の下、人気のない昇降口の柱の陰で、水城と新庄がコーラを片手に立っていた。
「いいか。今日は――白鷺の家まで、尾行する」
水城が小さく告げると、新庄はストローの先を噛みながら眉をひそめた。
「白鷺の家? って、どこにあるか誰も知らないんじゃ……?」
「そこが、おかしいって言ってんだよ」水城は即答した。「中学のときのやつに聞いても誰も知らない。写真も、家族の話も出てこない。住所も不明。あいつだけ異常なんだ」
「たしかに……言われてみれば……」
「まずは“家”を突き止める。それが第一ステップだ。いいな?」
新庄は少し躊躇したが、うなずいた。
そのとき、昇降口のガラス扉が開く音がした。
ふたりの視線がぴたりとそこに集まる。
「あっ……来た」
白鷺ユリが姿を現した。
まるで舞台に立つ女優のように、淡い陽光のなかをゆっくりと歩く。
整った顔立ち、黒髪の艶、均整のとれた体。
何気ない制服姿が、不自然なほど完璧に見えた。
新庄は無意識に息を飲む。
「……しかし、白鷺って本当に美人だよな」
「スタイルも完璧だし、顔も性格もミステリアス。あれじゃあ欠点ゼロじゃんか」
「そんなのはどうでもいい」水城が低く遮る。「あの完璧さが逆におかしいんだ。完璧な人間なんて、この世には存在しない」
新庄は肩をすくめた。「疑いすぎじゃね?」
「おい、動いたぞ」水城が言った。
ユリは昇降口を抜け、校門へと向かっている。どこかふわりとした歩き方だったが、まっすぐに前を見据えている。
ふたりは柱の陰から滑り出す。
「……さあ、尾行開始だ」
夕焼けが、ユリの背中を金色に染めていた。
その姿はまるで“人間”ではない、何か別の存在のようにすら見えた。
第三話 洋館
夕暮れの住宅街を抜け、一本道を歩き続けるうちに、ふたりの足が止まった。
そこには、まるで時間から切り離されたかのような、洋館風の屋敷が静かに佇んでいた。
「……ここかよ。でけぇな……これ、家か? つか、城じゃん……」
水城が思わず口にした。
煉瓦造りの外壁に、黒いアイアンゲート。手入れされた庭木に囲まれ、どこか洋風のホラーハウスを彷彿とさせる重厚さ。
それは近隣のありふれた住宅とは一線を画していた。
「車もやべぇぞ」新庄が指差す。
門の内側に止められていたのは、漆黒の高級セダン。マイバッハだった。
「美人で、頭もよくて、金持ち。……ますます怪しいな」
「それ、ただの偏見じゃん」
「いや、事実だ」
新庄は苦笑しながら、ユリの家をじっと見つめる。
「で、どうすんだ? これから。突撃すんの?」
水城は首を横に振った。「今日はここまででいい。深入りは禁物。やりすぎると逆にバレる」
「そっか。じゃあ、帰るか。……腹減ったな」
「何か食って帰るか?」
「お、いいね。食う食う。……マックでいい?」
「お前、マックしか知らねぇのかよ」
「嫌いか?」
「いや、好き」
ふたりは笑いながら、その場を離れた。
遠ざかる背中。
その後ろで、洋館の二階の窓がわずかに揺れた気がした。
誰かが、そこから彼らを見ていたのかもしれない。
あるいは、ただの風のいたずらだったのかもしれない――
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