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掃除を終えたばかりの居室には、まだ朝の香がほんのりと残っていた。

薄絹の帳が静かに揺れ、外の光を柔らかく受けて広がる影が、床に淡く滲んでいる。


「よくやってくれてるわね、セシル。手際がいいわ」


アウラは長椅子のそばに腰を下ろし、銀の盆に置かれた葡萄の実を一粒、指先でつまんだ。


セシルは水鉢を元の場所に戻すと、姿勢を正して軽く頭を下げる。

「……ありがとうございます」


「まあ、アリシア様の側に仕えるには、それくらいできなきゃ困るけどね」


ふっと、アウラの顔に懐かしむような微笑みが浮かぶ。

「……最初の頃を思い出すわ。こっちに来たばかりのとき、あの方、夜にひとりで泣いてたのよ。音を立てないように、声も殺して」


セシルは思わず顔を上げた。

「そう、なんですか?」


「アストリアの宮廷とはまるで違う異国の地。言葉も文化も、すべてが違う世界に、たったひとりで嫁いできたのよ」


アウラの目が、遠い記憶を辿るように細められる。

「それに、当時は――」


言いかけて、少しだけ躊躇いがちに口を閉じた。


「当時は?」


「前王妃イセトネフェル様の影が、まだこの宮殿に色濃く残っていたわ。しかも、あの方との間には既に王子と二人の姫君がいらっしゃるわ。どの子も聡明で、宮廷の皆に愛されている」


「……」


「王にとっては、その子たちこそが“家族”なのよ。アリシア様は政略のために迎えられた第一王妃だけれど……既に後継者が決まってるから、閨を共にされたことも一度もないわ」


セシルは眉をわずかに寄せた。


「……それは、王妃としては…」


「立場を保つのがやっと、ということ。第一王妃という肩書きはあっても、実際には孤立しているのよ」


アウラは苦笑を浮かべた。

「それでも、アリシア様は跳ね除けもせず、迎合もせず、ご自分のやり方で馴染もうと努力なさったわ。だからこそ、周囲はどう扱えばいいのか分からない。芯が強くて、でも触れがたい――そんなお方」


アウラの指が、卓上の水差しの縁をゆっくりとなぞる。


「そこへ来て、ネフェルティナ様が迎えられた。あの方は国内の名家の出で、宰相の娘。王とも血のつながりがある。だから、重臣たちは皆……」


「……そちらに従う、のですね」


「そう。顔には出さないけど、誰が“正妻”なのか、まだ決まっていないと思っている人も多いわ。形式上はアリシア様が第一王妃。でも、第二王妃のほうが“分かりやすい”。生まれも、言葉も、文化も、この国のものだから」


セシルはそっと視線を伏せた。


「ただ今は、どちらも“王妃”としてしか接していないわ。……ファラオにとって、今は王妃とは“妻”である前に“政治の駒”。心を預ける相手ではないのかもしれないわね」


しんとした空気が流れた。

帳の隙間から差し込む光が、床に淡い線を描く。


アウラは立ち上がり、窓辺の鉢植えの花にそっと水を注ぎながら、ぽつりと呟く。


「……でも私は、幼い頃からアリシア様にお仕えしていてね。あなたを侍女に取り上げるなんて――そんなわがまま、初めて見たわ」


ふふっと笑みを浮かべて振り返り、アウラはセシルの目をまっすぐに見つめる。


「よっぽど、お気に召したのね」


セシルはほんの少しだけ俯いた。


「私は、ここにいて良いのでしょうか?」


「当たり前よ。アリシア様が決めたことだもの。他の侍女や、ネフェルティナ様の言葉なんて、気にしなくていいのよ」


「…ありがとうございます」



セシルは小さく息をつき、照れを隠すように微笑んだ。

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