花天月地【第49話 燎原の炎】

七海ポルカ

第1話




 趙雲ちょううんはまず、北へ向かった。


 しょくの置かれた状況は予断を許さないものだったため、私的な理由で出てきた以上、何かあればすぐに劉備りゅうびの許に戻れる場所にいるべきだったが、そこでは涼州騎馬隊りょうしゅうきばたいの情報は全く期待出来た、出てきた意味がなかった。


 せめて動きや、どう涼州で展開しているのかを確認しなければ劉備にも、馬超ばちょうにも何の報告も出来なくなる。

 覚悟を決めて、の【定軍山ていぐんざん】砦と対峙する漢寿かんじゅの陣まで行った。

 魏の定軍山砦には曹洪そうこうが陣を張っていたが、赤壁せきへきの後は大きな動きは特にないらしい。 

 漢寿かんじゅの陣には王平おうへいがいた。

 彼は趙雲を自ら出迎えたので「いや、今回は軍策ではなく私事で涼州りょうしゅうの状況を見に来ただけなのだ」と説明しようとすると、王平は微笑んで「聞いています」と文を差し出して来た。


 鳥が運んで来た文は小さく折りたたまれていたが、姜維きょういの字で『趙雲将軍が涼州の様子を探りに行かれたので、立ち寄り助力を乞われた時は協力するように』と書かれていた。 きちんと成都せいとに報告が成されればどのようなことでも構わないとも付け足してあった。

 出てくる時、諸葛亮しょかつりょうが「姜維に知らせておく」と言っていたので、それを聞いた姜維が先んじて伝令を飛ばしたのだろう。


 趙雲ちょううんは出身が山岳地帯だったので、山の移動は慣れていて、早い。

 だから鳥の力を使って急ぎの伝令を使ったのだ。

 いくら趙雲が早くても、さすがに空を制する鳥が山を越える早さには敵わないからである。


 姜維きょういからの文は二つあり、一つは王平おうへいに趙雲への助力を依頼する内容だったが、もう一つは趙雲自身に宛てたもので『どんなに離れようと貴方が戦の大きな時機を見誤るはずはないだろうから、何か思うことがあれば思い切って見たいものを見て来てください』と書いてあった。

 まるで【定軍山ていぐんざん】の更に北へ向かわなくては、と考えながらここに来た趙雲の背を押すような文は、彼を少し微笑ませる。


 手紙にはっきりと仔細は書いていなかったが、「丞相じょうしょうが涼州の状況を気にしている」とも書いてあった。


 これは諸葛亮の考えが、軍が涼州に対して大規模な軍事行動を取った場合、派兵する考えの方にどちらかというと傾いているようだ、ということを暗に伝えて来ていることが趙雲には分かった。


 諸葛亮に全く派兵の意思がない場合は姜維きょういは「貴方に全てを任せる」と書くはずだし、諸葛亮に派兵の意思がなくとも、劉備に強いその意思があれば「貴方の動きはいずれ劉備殿の為になる」と書く。

 姜維は普段、公の場でなければ諸葛亮を「孔明こうめい先生」と呼んだ。

 趙雲ちょううんへの私信であれば、その中でも大抵そう書く。

 姜維が「丞相」と諸葛亮のことを書く場合、公の意が含まれている。

 よって、「丞相が涼州の状況を気にしている」という言い方は、劉備に話がまだ行っていなくとも諸葛亮しょかつりょうがいざとなれば派兵の方に説得する意志があるため、どちらかというと派兵の色が濃くなって来ている、そのため涼州の調査は有意義なので、諸葛亮のためにもより広い積極的な情報収集を期待している、という意志が表れているのだ。


 王平おうへいは趙雲が手厚くもてなす必要はない、と言うことは分かっていたようだが、しばらく同じ戦線にはいなかったので、【赤壁せきへき】でも大きな働きをなさった趙雲将軍と少しだけ話が出来ればと思って出迎えたのだと食事を用意してくれていた。

 

 趙雲はその気持ちには感謝し、今夜中に発つつもりだがと言った上で王平と夕食を共にした。


「先程の姜維きょうい殿からの報せは……悪い報せ、というようではないようでしたが」


 漢寿かんじゅの陣を任されている王平が気にするのは当然だったので、趙雲は頷く。

 しかし当然だが、王平もすでに北方から魏軍が長安ちょうあんからの派兵を行ったことは把握していたため、状況報告以上の指示ではないとはっきり答えておいた。


「まだ何が起こるのか、分からないのです。王平殿。

 曹魏の動きを待つ形でしか動けぬのは辛いことですが」


 王平は頷く。


「しかし魏軍の顔ぶれを見ました。

 司馬仲達しばちゅうたつ賈文和かぶんかがいる。この二人は西征せいせいですでに大きな戦果を上げているので、何もせずに帰る相手ではない」


「はい。私もそう思います。特に賈文和かぶんかは涼州の地理に非常に明るいと」


「出身者ですからな。若くして洛陽らくようでも働いていた。

 涼州りょうしゅう姑臧こぞう出身で、董仲穎とうちゅうえい臨洮りんとうとも近しい」


 近しい、と言った王平の声に嫌悪感が混ざった。


賈詡かく赤壁せきへきの時は天水てんすい砦に配置されていましたが、防衛戦はともかく、今回のような侵攻軍に従軍している以上、必ず涼州に対して軍事行動を起こす為に派遣されているはず」

「どのようなものと考えられますか?」

司馬仲達しばちゅうたつがいるのが不気味ですが……しかし賈詡かくがいるならば単純な侵略行動ではないのかも。地理に明るい者を伴っているとすれば、築城のようなことも、軍事行動に含まれます」


「つまり【定軍山ていぐんざん】と連動出来る新しい砦の築城か……」


 趙雲ちょううんは夜半に発つので酒は遠慮した。

 茶を飲みながら、考えを巡らせる。


「曹魏軍の規模の大きさは、馬超ばちょう将軍が成都に入られた以上、涼州騎馬隊がどの程度涼州に残っているかを、全く測りかねているからではないでしょうか」


「私もそう思います。彼らは曹魏相手にも砦を守る以外は遊撃戦で挑んでくるため、全体数が捉えにくい。馬超将軍は名高いですし、涼州連合りょうしゅうれんごうを率いる韓遂かんすいに、一応は豪族たちは従っていますが曹操の旧友なので、さほど信頼はしていません。

 しかし韓遂も馬鹿ではない。今曹操と手を結んでも、実権はいずれ曹丕そうひが握ります。

 父親の約束など知らんと同盟を反故にされた場合、自分が処断される立場に近いことは読めるはず。

 此度は容易く涼州騎馬隊が曹魏と手を組むとは思えませんが」


 王平おうへいは頷く。


「とすれば曹魏が新しく涼州に防衛の砦を作ることも、涼州騎馬隊は良しと見ないのでは」

「戦になるでしょうか?」

「騎馬同士の戦いになれば、まだいい。

 司馬仲達しばちゅうたつが再び涼州の村落を焼くようなことになるのが一番問題です」


 王平が趙雲を見た。


「貴方が涼州を気にされたのも、そのことが気がかりだからなのでは」


「……。」


「馬超将軍を……殿はどのように使われるおつもりなのでしょう……?」


 決して強く詰問するわけではなく、みだりにこういったことを私的に口にしない趙雲の性格を知った上で、窺うようにそっと王平は聞いて来た。


 ……みんな不安なのだ。


(呉蜀同盟決裂は、私も意図していなかった)


赤壁せきへきの戦い】というあの、輝かしい戦果に背を向けて。

 勝利に湧く呉軍からも離れて、ろくな護衛もほぼつけずしょくの陣にやって来た。

『彼』が若く、重鎮でないから、そのような危険地帯に送り込まれたわけではないのは、趙雲は分かっていた。


 は、若いが才ある者達が多かったので、その中に埋もれてはいたけれど、周公瑾しゅうこうきんも目を掛けて側で学ばせているというのは聞いている。

 呂子明りょしめいも才があると買っていた。


 だからといって彼の意志で、あの時諸葛亮しょかつりょうに向かって剣を抜いたのではない。



『恐らくあの方を私の許に送り込んだのは周公瑾です』



 諸葛亮が無事に戻った成都せいとの城で、そう言っていた。


「だがあの時、近くに私もいた。何故孔明こうめいを狙うのだ?」

「……孔明殿は単なる軍師ではありません。義兄上あにうえを敵の災いから守れる、慧眼けいがんを持っておられる。

 軍略に聡い軍師でも、そういったことに力を発揮出来ない者は多いのです。

 周瑜しゅうゆはそれが分かっていた」


「孔明がいなくなれば、私の命などいつでも奪えると……」


 張飛ちょうひが舌打ちをする。


「それにしたってよ。孫権の奴だ。自分の妹がまだ兄者の側にいるってのに、そんな作戦を周瑜にやらせるってのは、どーいう神経の奴なんだ!」


「政略結婚とはそういうものだ。翼徳よくとく。何も意図がなく、結ばれることなどない」

「じゃあ、あの女はいずれこうなるってことを知ってて嫁いで来やがったのか」

孫黎そんれい殿は呉の兵が襲いかかってきた時、本当に驚いておられた。それはあるまい。

 ……全ては孫権そんけん周瑜しゅうゆの間で決められたことだろう」


 呉の陸伯言りくはくげんという青年は、何度かそれ以前に諸葛亮にも会っていた。

 敵ながら諸葛亮しょかつりょうの才を尊敬し、礼儀正しく接しているのを趙雲ちょううんも見たことがある。


 赤壁せきへき後に、姜維きょういに尋ねられた。


子龍しりゅう殿は陸伯言りくはくげんが、孔明こうめい先生に仇なすと知っておられたのですか?』


 不思議な問いだったので、趙雲は首を傾げる。


「いや。何故だ?」

「だって気にしておられたでしょう」


 指摘されて、ああ……と気付いた。


「いや。あれは……陸遜りくそん殿がどうという話ではないんだ。以前、まだ呉蜀が同盟を結んでいないときに一度だけ遭遇し剣を合わせたことがある。その時に……」


 姜維きょうい胡桃くるみ色の瞳がじっ、とこちらを見ていた。

 趙雲は苦笑する。

 姜維に対して嘘はつけない。

 貴方が私を欺くはずがないですよね、という目で彼はいつも最初から趙雲を見て来るので、些細なつまらない軽はずみな嘘でも、つこうとすると罪悪感を感じるのだ。


「若いのに才ある剣を使う人だなと思っただけだ」


 姜維きょういは同年代の陸遜に少し複雑な気持ちを抱いているらしく、彼の話題の時にはあまり機嫌のいい顔をしなかった。

 孔明先生を狙うような奴だからですよと言っているが、陸伯言りくはくげんが諸葛亮を狙う前から、姜維はこうだった。

 ふと自分が彼を気にした理由と、姜維が最初から陸伯言に背を向けた理由が、同じなのではないかと趙雲ちょううんは思った。


「貴方なら、武芸の才のある人間など山ほど知っているはずじゃないですか。

 貴方自身だって力のある人だから、滅多に強い剣術使いに会ったくらいじゃ驚かないはずです。絶対に何か別に理由があるはずだ」


「そんなことはない。私だって日々才ある人々に驚いてるよ」

「貴方は嘘を言う人じゃないけれど、謙遜が過ぎると信じません」


 姜維は、いざとなれば趙雲なら陸遜りくそんを討てるはずだという確信がある。

 だから趙雲が陸遜を気にすると苛立つのだろう。

 実際趙雲が馬超ばちょうと槍の稽古などをしていても、ああいう顔は見せない。

 馬超相手だと勝ったり負けたりしても、いつも目を輝かせて槍の稽古を見守っていた。


 趙雲がいざとなれば討てる相手を、何故妙に気にする必要があるのかという、そこが分からず不満に思ってるのだろう。


 言葉で説明してやれたら確かに楽だ。

 だが生粋の武官である趙雲も、さほど言葉が上手ではない。

 それに本当に、何か明確な、大きい理由が何かあるわけではないのだ。


 初めて陸伯言りくはくげんと剣を合わせた時、彼の剣を折った。

 いい剣だったが、叩き折った。

 しかし実はあの時、趙雲が狙い、思い描いていたのは剣を折ることではなく、剣を叩き折って尚且つ、胴切りをすることだった。

 非常にしつのいい剣だったのだろう、聞けば陸伯言はあれほど若くともの名門陸家の当主だというから、そういう業物わざものの双剣を所有していたのだろうが、砕かれ方も、趙雲の思い描いたものとは違った。

 一瞬受けかけて、耐えきれず砕けたので、その威力のほとんどが剣を砕くことに費やされ、陸遜を斬るまでには至らなかった。


 決して驕ったわけではないが、殺せると思った相手を殺せなかったことが、少し心に残った。

 次に会った時は赤壁せきへきで、諸葛孔明しょかつこうめいを狙って斬り掛かって来た時に迎え撃った。

 すでに彼は新しい剣を持っていて、趙雲は再び剣を破壊するつもりだったが、今度は剣も砕けなかった。

 武器に詳しい者に聞くと、趙雲の使う名槍【黄龍こうりゅう】を以てしても砕けない双剣となると、数えるほどもないのだという。

 襲いかかって来る時に、一瞬柄の部分に非常に細かい霊鳥れいちょう意匠いしょうが見え、淡い青の光を刀身が帯いていたと言うと、間違いなく【銀麗ぎんれい】という名刀だろうと教えて貰った。


 砕けなかった剣はともかく趙雲が忘れられないのは、斬り掛かって来た姿だった。


 確かに諸葛亮しょかつりょうを追っていたので、割って入った趙雲に構っていられない心境だったのだろうが、それにしても普通、一度真正面から打ちかかってまともに剣を叩き折られた相手に、再びあれほど躊躇いなく斬り掛かって来れるだろうか? と思ったのだ。


 一番最初に会った時は、まだ探ろうとする意図や、迷いのようなものが表情に見えたが、二度目に剣を交えた時は一切躊躇いを見せず、怒りの表情で襲いかかって来た。


 その時に見せた、あの剣技。


 一度目に会った時とは豹変していた。

 周公瑾しゅうこうきんから命を受け覚悟を決めると、あれだけの剣を使ってくるのか。


 陸伯言りくはくげんは会ってからずっと、趙雲ちょううんの戦いながら思い描いたものを、大きく裏切って来る相手だったのだ。

 真剣な斬り合いなら、何もかも思い通りにならないなど趙雲はよく分かっている。

 多少の想定外などで揺るぎはしないが、あの青年と対峙する時だけは、何もかも予想していなかった結果になる。


 三度目は……。



趙雲ちょううん将軍、本当に申し訳ありません……』



 俯いた顔を伝い、地に落ちていく涙の雫だけが見えた。


 軍が現れたと聞いた時の、龐統ほうとうのあの不思議な表情……。

 

(忘れられない)


剄門山けいもんさん】の戦いの時は、すでに呉蜀同盟は決裂していた。

 敵だったのだ。

 敵である龐統ほうとうの亡骸を、打ち捨てもせず背負って山を下って来た。


 孔明こうめいを必ず殺さんと、襲いかかって来たあの覇気。

 それを阻止した龐統ほうとうへの、あの苛烈な怒り。


 一体どこへ行ったのだろう?


 龐統のために泣いていた、あの姿が趙雲の脳裏には今もはっきりと残っている。


 呉蜀同盟があの時あの場所で決裂するなど、しょくの者は誰も考えていなかった。

 周公瑾しゅうこうきんだけが【赤壁】を勝利し、勝利したその先まで見据え、あの若き将官をあの地に送り込んだのだ。


「呉蜀同盟は呉から切った。魏延ぎえん将軍が孫伯符そんはくふの首に執着されたことは予期せぬことでしたが、本当にその必要があるならば和解を呉は受け入れたでしょう。しかし諸葛亮しょかつりょう殿の首を狙ったことから見ても彼らはいずれにせよ、信用ならぬ相手であることは分かった。

 呉と手を結べない以上、蜀は北へ目を向けるべきです。

 馬超ばちょう将軍というより、劉備りゅうび殿も諸葛亮殿も涼州という存在を軽視はもはやされないでしょう。

 時期は分からないが、私は魏軍の【定軍山ていぐんざん】も再び来襲すると考えています。

 今回の動きはその布石かも。

 注視しておく必要があります。

 私は強くそう感じるのです。

 王平おうへい殿。漢寿かんじゅも防衛のための要所となりましょう。

 どうかよろしくお願いします」



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