ゴーストの囁き

スラム街の安宿の一室。


窓の外では、ネオンの光が酸性雨に滲み、サイケデリックな模様を描いている。


エヴァと別れてから、三日が経った。


俺は、ネズミのように息を潜め、ただひたすらに彼女からの連絡を待っていた。


この部屋のセキュリティは、俺の事務所よりは多少マシだが、本格的な追跡を受ければ、気休めにしかならないだろう。


一日中、壁に埋め込まれた監視カメラのレンズを睨みつけ、神経をすり減らす。


焦りが、思考を蝕んでいく。


エヴァは、本当に信用できるのか?


俺を裏切り、チップを持ってメモリア社に駆け込んでいても、おかしくはない。


いや、彼女の瞳の奥に宿っていた、あの暗い光を信じるしかない。


彼女もまた、メモリア社に対して、俺とは違う種類の、だが同じくらい根深い何かを抱えている。


じっとしているのは、性に合わない。


俺は、探偵だ。


謎があれば、解き明かさずにはいられない。


俺は携帯端末を取り出し、ダイブ用の簡易ヘッドセットを装着した。


場所は違うが、やることは同じだ。


危険な賭けだとは分かっている。


奴らが俺のダイブを探知すれば、位置を特定されるリスクは格段に上がる。


だが、知りたい。


あの"ゴースト"の正体を。


俺は、再びヤマシロ・ミナの記憶データにアクセスした。


意識が、光の粒子となって再構成される。


そこは、再びあの幸福な公園だった。


恋人と微笑み合う、ヤマシロ・ミナ。


前回は、彼女の恐怖に引きずられ、ただ狼狽えることしかできなかった。


だが、今回は違う。


俺は、記憶の表層を流れる感情を無視し、意識をデータ構造の深層へと沈めていく。


探偵としての、分析者の視点。


この記憶は、もはやただの追体験の対象ではない。解剖すべき、捜査資料だ。


再生開始、3分12秒。


世界が軋み、ノイズが奔流となって押し寄せる。


来た。


俺は、記憶の流れを強制的にフリーズさせた。


目の前には、ノイズに覆われた"ゴースト"が、手を伸ばしたまま静止している。


「分析モード、起動」


俺は、脳内でコマンドを唱えた。


視界に、半透明のコンソールがオーバーレイ表示される。


まずは、ノイズの除去だ。


俺はフィルタリングツールを起動し、"ゴースト"を覆うデータの乱れを、一層ずつ剥がしていく。


ジジ……という耳障りな音が、少しずつ変化していく。


それは、単なる無意味なノイズではなかった。


『……なぜ……』


不意に、ノイズの奥から、か細い男の声が聞こえた。


ミナの恋人の声ではない。まったく知らない、誰かの声だ。


俺は、さらにフィルタリングの強度を上げる。


『……最適化、完了……』


今度は、冷たい女の声。


感情のない、合成音声のような響き。


なんだ、これは……?


この記憶データは、ミナ一人のものではないのか?


俺は、映像データにも集中した。


"ゴースト"の輪郭を形成するノイズの粒子。


その一つ一つが、高速で明滅している。


俺は、再生速度を極限まで落とし、コマ送りで映像を解析する。


ノイズの中に、別のイメージが隠されていた。


一瞬だけ映し出される、白い、無機質な部屋。


見たこともない、幾何学的な模様が描かれた天井。


誰かの腕に繋がれた、無数のチューブ。


それは、公園の風景とは似ても似つかない、冷たい場所の記憶。


間違いない。


この"ゴースト"は、パッチワークだ。


ヤマシロ・ミナの記憶を土台にして、複数の、誰のものとも知れない記憶の断片が、無理やり縫い合わされている。


まるで、フランケンシュタインの怪物のように。


一体、誰が、何のために、こんなものを……?


俺が、さらに深層へアクセスしようとした、その時。


ピピピッ。


現実世界の俺の端末が、外部からの通信を知らせるアラートを発した。


俺は強制的にダイブから引き上げられる。


隠れ家の薄暗い部屋。


ヘッドセットを外すと、額にびっしょりと汗をかいていた。


端末の画面には、暗号化されたメッセージが表示されている。


送り主は、エヴァだ。


『追われてるね、探偵さん。大物がかかったみたいよ』


俺は、ゴクリと唾を飲んだ。


『メモリア社の保安部長、クロウ。奴が直々に、あんたのこと探してる。道端のチンピラとはワケが違う。本物のプロよ。奴に見つかったら、あんたはデータのかけらも残らない』


クロウ。


その名前に、聞き覚えはなかった。


だが、文面から伝わるエヴァの警告が、その男の危険性を物語っている。


続けて、もう一通メッセージが表示された。


『あんたが調べてた、他の被害者たち。全員、生前にメモリア社の、ある特定のカウンセリングプログラムを受けてた。表向きは、トラウマ治療ってことになってるけどね』


メモリア社。


カウンセリングプログラム。


バラバラだったピースが、一つの線を結び始める。


これは、単なる連続殺人じゃない。


巨大企業が裏で糸を引く、巨大な陰謀だ。


そして、俺は、その巣の中心に向かって、真っ直ぐに歩き出してしまった。


端末が、再び短いアラートを発した。


エヴァからだ。


『忠告はしたからね。あとは、あんた次第。健闘を祈る』


通信は、それで終わっていた。


俺は、ヤマシロ・ミナのチップを強く握りしめた。


もう、引き返す道はない。


クロウという名の死神が、すぐそこまで迫っている。


俺に残された時間は、あまりにも少なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る