スラムの魔女

俺の事務所の安物のコンソールが、か細い警告音を発した。


画面には、俺の偽造IDを使ったデータベースへのアクセスログが、何者かによって追跡されたことを示す赤いマーカーが点滅している。


警察か?


いや、違う。奴らの動きは、もっと鈍重で官僚的だ。


これは、もっと素早く、もっと悪質な連中のやり口だ。


ヤマシロ会長を消した、"ゴースト"の使い手たち。


奴らは、俺が類似事件を嗅ぎつけたことに気づいたんだ。


この事務所も、もはや安全ではない。


俺は壁の隠し金庫から、なけなしの現金と、数枚の偽造IDカードを掴み出す。


そして、ヤマシロ・ミナの記憶チップを、静電気防止ポーチに厳重に収めた。


これは、ただの証拠品じゃない。


奴らの正体にたどり着くための、唯一の鍵であり、そして、いざという時の交渉材料だ。


一人で追うのは、無謀すぎる。


俺には、情報が必要だった。


警察や企業のデータベースでは決して手に入らない、裏社会の澱の底に沈んだ、生の情報が。


ネオ・キョートの裏社会で、そんな情報を扱える人間は、そう多くない。


その中でも、最高の腕を持つと噂されているのが、通称「魔女」と呼ばれる情報屋だった。


性別も、年齢も、本名も、誰も知らない。


ただ、どんな情報でも手に入れ、法外な報酬を要求するという。


そして、仕事の流儀に極めてうるさく、気に入らない依頼人は、二度と日の目を見られないとも言われている。


俺はコートの襟を立て、酸性雨が降りしきる外へと足を踏み出した。


向かう先は、この街の光が届かない場所。


上層区の人間が、その存在すら知らないか、あるいは、知りたくないと思っている場所。


ネオ・キョートのスラム街だ。


リニアトレインを降りると、空気が変わった。


上層区のクリーンで管理された空気とは違う、湿気と、得体の知れない食べ物の匂い、そして人々の汗が混じり合った、濃密な匂い。昔を思い出す。記憶探偵になる前は、俺も、こういう匂いの中で生きていた。


ここは、法の支配が及ばない無法地帯。


最新の義体をひけらかす者は、あっという間にパーツを剥がされ、路地裏のゴミになる。


俺は人波をかき分け、迷路のような路地を進んでいく。


ホログラム広告は色褪せ、建物の壁は落書きで埋め尽くされている。


道端では、違法な記憶ドラッグの売人が虚ろな目をした客に商品を売りつけている。そのすぐそばでは、他人の豪華なバカンスの記憶でも過剰摂取したのか、うわ言を繰り返しながら倒れている廃人の姿があった。この街では見慣れた光景だ。


「魔女」の居場所を知る者はいない。


彼女に会うには、彼女自身に、こちらの存在を認めさせるしかない。


俺は、古い中華料理屋のカウンターに腰を下ろし、一杯の合成アルコールを注文した。


そして、店の隅にある旧式の公衆端末に、自作の通信ジャックを差し込む。


ディスプレイに、複雑なコードを打ち込んでいく。


これは、俺が知る限り、唯一「魔女」にコンタクトするための暗号化された通信経路だ。


もちろん、経路の先が本当に彼女に繋がっている保証はない。


下手をすれば、こちらの情報を抜き取ろうとするハイエナの群れに食い荒らされるだけだ。


『用件を言え』


数分後、画面に無機質なテキストが表示された。


罠か、それとも本人か。


『ヤマシロ・ミナの死の真相。類似する連続不審死について。情報を買いたい』


『対象がデカすぎる。管轄が違う』


『あんたにしか頼めない。報酬は、ヤマシロ・ミナのメモリーログだ』


俺のメッセージに、相手はしばらく沈黙した。


死んだ人間の記憶、それも大企業の会長令嬢の最後の記憶は、裏社会では最高級の価値を持つ。


違法な記憶ドラッグの原料にも、好事家へのコレクションにもなる。


『……面白い』


画面に、座標データらしきものが表示された。


『30分以内に来い。一人でだ。余計なものを持ち込むな。スキャンはさせてもらう』


通信は、それきり途絶えた。


指定された場所は、スラムのさらに奥深く、廃棄された義体パーツの山が連なる一角だった。


目的の建物の前まで来ると、壁に埋め込まれたスキャナーが、赤い光で俺の全身を舐めるようにスキャンした。


武器や、余計な通信機器がないことを確認すると、重い鉄の扉が、地響きのような音を立てて開いた。


中は、ガランとした倉庫だった。


だが、その中央に、まるで祭壇のように、無数のサーバーとディスプレイに囲まれた一角があった。


そこに、彼女はいた。


想像していたような、年老いた魔女ではなかった。


歳は、おそらく俺と同じくらいか、少し下。


派手な色に染めた髪を無造作に束ね、ノースリーブのジャケットからは、タトゥーが彫られた腕が伸びている。


彼女こそが、「魔女」エヴァ・サカキだった。


「あんたが、ライア・ミカミね。思ったより、くたびれたツラしてる」


エヴァは、ダイブチェアに似た椅子に座ったまま、値踏みするように俺を見た。


「あんたこそ、噂とはずいぶん違う。もっと恐ろしい化け物かと思ってた」


「期待に沿えなくて、残念だったわね」


彼女は肩をすくめた。その時、彼女の右腕に、古い火傷の痕があるのが見えた。


ケロイド状になったその傷は、かなり昔のものらしかったが、痛々しい記憶を刻み込んでいるように見えた。


俺の視線に気づいたのか、彼女は無意識に腕を隠すように動いた。


「で、報酬のチップは?」


俺はポーチからヤマシロ・ミナのチップを取り出し、テーブルの上に滑らせる。


エヴァはそれを手に取ると、手元のコンソールに接続した。


彼女の指が、恐ろしい速さでキーボードを叩く。


「……なるほどね。こりゃ、確かにヤバいブツだわ」


彼女はディスプレイに表示されたデータを見ながら、面白そうに呟いた。


「ノイズまみれのゴースト。あんた、とんでもないものに首を突っ込んだみたいね」


「だから、あんたに頼みに来た。このゴーストの正体と、他の被害者について、何か知らないか」


「さあ、どうだか」


エヴァは椅子を回転させ、俺に背を向けた。


「ただ、一つだけ忠告しといてあげる。そのチップ、メモリア社が血眼になって探してる代物よ。あんた、もう普通の世界には戻れないかもね」


「メモリア社……?」


なぜ、巨大企業の名前がここで出てくる?


「それ以上は、情報料を払ってからね」


エヴァは、挑発的に笑った。


「チップを渡しただろ」


「これは、私に会うための入場料。調査費用は、また別よ」


彼女は、どこまでも食えない女だった。


「あんた、なんでそんなにメモリア社を警戒するんだ?」


俺の問いに、彼女の笑顔が、一瞬だけ消えた。


その瞳の奥に、凍てつくような、暗い光が宿る。


「……さあね。ただの勘、ってやつよ」


彼女はそう言って、再びディスプレイに向き直った。


これ以上の会話を拒絶する、明確なサインだった。


俺は、このスラムの魔女と、危険な取引を始めてしまったことを、改めて実感していた。

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