第16話 濃厚チーズのカルボナーラライス

 魔術は存在する。魔術というのは科学的な存在だ。


 科学とは再現性だという。

 魔術というのは、魔女や魔術師など特別な資質を持つものしか使いこなせない。そんな先入観があるかもしれない。

 実際には、魔術に再現性はある。条件さえ整えれば、誰でも、いつでも行うことができるだろう。ただ、魔術に手を染めたものは例外なく悲惨な死を迎える。それゆえに、近代科学社会では魔術が明るみに出ることはなかった。


 あんな事件が起こる前は。


          ◇


 その日は唐突にやって来た。

 私は珍しく外出し、打ち合わせに向かっていた時だ。商店街を歩いていた。


 空間が歪むような感覚がある。その次の瞬間、急に降って湧いたように現れた人たちがあった。

 いや、人か? 確かに二足歩行? しているようだが、腕が二本ではない。足も二本ではない。触手が鞭打ち、その顔は魚介類か何かが人間の顔に混ざったかのように見えた。


「今、この瞬間より、我らが偉大な魔術師によって、世界は支配された。よもや、刃向かおうなどというものはいないな」


 魚介人間の一人が声を上げる。


 何を言っているんだ。私はその物言いに困惑していた。

 だが、周囲の人々を見渡すと、無表情で魚介人類を見つめている。何か、不気味なものを感じる。


「あなたたちは何なんですか? 映画かテレビの撮影でしょうか?」


 190センチはあろうかという大男が声を上げた。顔にはなぜかホッケーマスクが嵌められている。

 しかし、その物言いはまともに思えた。


 その横の女性もまた声を上げる。その女性は長い黒髪で顔を覆っていて、その表情を窺うことはできない。


「この場所で撮影するなんて話は聞いてない。許可取ってないんじゃないですか? 警察、呼びますよ」


 やけに自信に溢れた物言いだ。この辺りで商売している人なんだろうか。

 しかし、魚介人類は一瞥すると、ただ呟く。


「不穏分子がいた。排除する」


 その返事ともいえないものが聞こえると、魚介人類の腕がしなやかに伸び、大男と女性に纏わり、そして握りつぶした。

 ぐちゃりという小気味いい音ともに、二人の地と肉片が周囲に散らばる。


 だというのに、そのことを気にしている人は誰もいない。先ほどまでと同じように、ただ無表情で虚空を見つめている。

 魔術師の魔術とやらで正気を失っているのだろうか。


 まずい。さっきの二人が死に、この場で正気なのは私だけなのだろう。

 逃げ出すしかない。


 私はこそこそと周囲の人々の陰に隠れつつ、魚介人間から見つからないように後ろに下がる。


 ガサッ


 すれ違う人の鞄と私の鞄がぶつかり、音を鳴らす。

 私はキョロキョロと周囲を見渡す。見つかっただろうか。


 ギロッ


 魚介人間の視線がこちらに向かったように思えた。

 ひっ。私は思わず嗚咽を漏らしつつ、人ゴミをかき分けて、走り始める。


          ◇


 私の名前は麓郎ろくろう。ライターをしている。いや、していた、かな。こんな状況じゃ私に仕事を依頼する人も会社もありそうもない。


 この世界は突如として魔術師を名乗る存在によって支配されてしまった。ほとんどの人々は意識ごと乗っ取られている。

 これは幸運といっていいのだろうか。私はその魔術から逃れたようで、意識を保ったまま、ただ逃げ惑っていた。


 まあ、こんな手記を読むような人がいるとも思えないけれども。

 だけど、もし読む人がいるなら、今は困窮極まっているかもしれない。そんな人に少しでもヒントというか、役に立つことがあるなら、書くべきかもしれないと思えるんだ。


 この世界にもまだ多少なりとも正気を保っている人がいて、そんな人と何人か接触することができた。私と話している間に気がくるってしまった人もいるけれど。

 そして、どうにか状況を知ることができた。それを記すとしよう。


 魔術師は邪神を召喚し、地球上のすべてを支配した。しかし、その支配に体質が合わないものもいて、私のように支配されないものもいた。それを邪神の眷属によって探し出し、殺しているという。

 そして、邪神は魔術師の望むままになる存在ではない。魔術師の精神を蝕み、やがては周囲全て――この場合は地球そのものだろうか――を滅ぼして去っていくのだ。


 私にはそれを止めるという使命ができていた。

 私がこの世界を、地球を守らなくてはいけない。


 そう思っていると、奇妙な音が鳴った。これは邪神の眷属が現れる音だ。

 どこか、隠れる場所はないか。私は周囲を見渡した。


 ピキィアァァァァッ


 邪神の眷属が私に対して牙を剥き出しにし、襲い掛かってきた。

 逃げろ! 逃げる場所は一つしかない。


          ◇


 テレレッテッテッテー


 自動ドアを跨ぐと、チャイム音が鳴った。それを聞くと、安全な場所に辿り着いたという気分になる。

 その場所はコンビニだった。この店の従業員なら邪神の影響は受けていない。なぜだか、それを確信していた。


「あらぁ、麓郎くん、いらっしゃい」


 ニコニコとした満面の笑みのクトゥルフお母さんが出迎えてくれる。その笑顔を見て、私も弛緩した気分になった。ニヘラと笑みが浮かんでくる。


「うふふ、麓郎くん、この世界も満喫しているようでよかったー」


 クトゥルフお母さんが言う。


 いやいや、つらいばかりなのに! 味方なんて、ほとんどいないんだよ!

 そう思うけれど、クトゥルフお母さんの笑顔を見ていると、何も言えなくなってくる。そういえば、こんな暮らしも楽しい……かなあ。


「けどね、楽しんでばかりじゃダメよ」


 クトゥルフお母さんは人差し指を立て、空中を指さすような仕草をする。


「麓郎くんは犯人探し、ちゃんとやっているの?

 自分が何のために複数の世界にいるか、わかっていないわけじゃないでしょ」


 なんだか、よくわからないことを言われた。

 犯人? って何? 魔術師のことかな。まあ、探さなきゃいけないんだけどさ。


「そうじゃないでしょ。

 麓郎くん、君は複数の世界で世界の滅びに立ち会ってるのよぉ。その理由は様々だけど、全ての世界が滅んでいるなんておかしいと思わない?

 敵がいるの。その敵をどうにかしなきゃ、このループは止まらないんだから」


 なんだか、よくわからない話になった。

 私が複数の世界に跨って存在しているのはなんとなく理解できた。というか、そんな気もする。

 けれど、私に敵がいる。それは本当だろうか。世界を跨って存在する敵がいる、そんな大それたものじゃないと思うけれど。


「何をするかは麓郎くん次第よねぇ。それでいいと思うのよね。

 でも、困ったら、またルリエ―マートのクトゥルフお母さん食堂に顔を出してほしいなぁ」


 そう言って再びクトゥルフお母さんは笑った。

 しかし、それを聞いて、私も思い出すことがある。


「ルリエーマートに来たんだから、食べ物を買っておかないと!」


 私はそう言うと、クトゥルフお母さん食堂のお弁当を見て回った。


          ◇


 ルリエーマートを後にする。ビクビクと周囲を見渡すが、どうやら追っ手はいなかった。

 一安心して、隠れ家へと向かう。


 隠れ家につくと、まずは酒を飲むことにした。白ワインだ。

 その場所は古びた酒場だったらしく、もぬけの殻だが、年季の入った酒が置いてあった。

 その中で安そうなワインを見繕うと、誰もいないレジを開け、お金を入れておく。物資には対価を払っておかないと、どうも具合が悪い。


 ワインをグラスに注いだ。一人で乾杯をすると、一口飲む。

 程よく冷えていてちょうどいい飲み心地だ。ほのかな甘さがあり、安いワイン独特の突き放すような酸っぱさがあるが、それに爽やかなブドウの香りが加わり、クセになる味わいになっている。

 うん、まあまあな美味しさ。安いワインだからね。


 さて、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で買ってきたご飯を食べよう。

 今日は濃厚チーズのカルボナーラライスだ。カルボナーラといえばスパゲティであるが、それでライスを食べるというのだ。一体、どんな味わいなのだろう。


 パッケージを開けると、濃厚なチーズの香り。それにハーブの香りもある。

 これはなんというか……。


「罪の深い香りがする」


 そう呟くと、意を決して、スプーンをカルボナーラライスに突き立てる。

 これは濃厚なチーズの味わい。その奥にはクリーミーな美味しさがあった。ミルクとコンソメ、その味付けがライスによく合う。というか、ご飯に合わないものはこの世に存在しないのだろう。


 食べ進めると、ベーコンがあった。噛みしめると、肉の旨味、バターの香りが口の中で漂う。燻製肉ならではの香りが食欲を刺激していた。


 卵を割る。半熟の卵が中央に鎮座していた。

 黄身がとろりと溶ける。それをライスとカルボナーラソースに絡め、口に入れた。まろやかな旨味、とろけるような食感が心地いい。


 ミルク、生クリーム、チーズ、バター、ベーコン、卵。その圧倒的な質量に圧倒されつつ、魅了されてならない。

 私は夢中になって食べ進めていた。


          ◇


 圧倒的な満腹感があった。まったりとした、気怠い感覚に浸る。

 しかし、私の身体はその感覚ととともに、地球を駆け巡っていた。


 探す。魔術師の居場所を。私の倒すべき相手の場所を。


 私の意識は隠れ家にある肉体を超越し、辺り狭しと飛び回っている。

 居ながらにして、世界中の情報が私の中に入ってきていた。そして、しらみつぶしに、魔術師のいそうな場所を当たっていった。


 見つけた! 奴の居城!


 私の感覚がその場所に留まると、私の肉体もその場所に出現した。

 急げ! 奴の兵隊に見つかる前に、魔術を仕留めるんだ。


 私はその居城を突き進むと、魔術師と邂逅する。

 魔術師は奇妙な風体をしていた。全身黒ずくめではあるのだが、頭には長い嘴のついたマスクをしており、目元は古めかしいゴーグルで覆っている。頭にはフードを被り、身体をマントで覆っている。


「ふふ、まさか君のほうから訪ねてくるとは。これは好都合というべきでしょうか」


 この状況は魔術師にとって不意を突いたものと思ったが、魔術師は不敵に笑った。

 いまだに余裕があるというのか。


 とはいえ、時間を与えれば与えるほど、相手に有利になるのは間違いない。

 私は動いた。魔術師に掴みかかり、そのマスクを剥ぎ取ろうとする。クトゥルフお母さんは犯人がいると言っていた。どう考えても、こいつが犯人だ。


 ボボンッ


 俺の頭が爆発した。脳みそが破裂し、頭蓋骨を割り、皮膚を割く。たらりと脳みそが垂れてきているのがわかる。

 どうして、私がこんな目に。


 私は意識を朦朧としながらも、魔術師の姿を見る。魔術師もまた同様に脳みそを爆発させ、頭がぐちゃぐちゃに崩れていた。

 それでも魔術師は何かを口から発しているようだ。これは呪文か。


「……………………!」


 それは世界を滅ぼす呪文だったのではないか。そう思えてならない。

 その言葉を聞いた邪神は嬉々として現れ、全てを破壊していった。


 魔術を行うものは例外なく悲惨な最期を迎える。

 私はその言葉を嚙みしめつつ、死にゆく魔術師を眺めていた。だが、同様に私も悲惨な最期を迎える。理不尽だ。

 死んだ。

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