第二話 ————君の居場所



 その日から──私は、彼のことを探すことが日課になっていた。


 放課後の校舎。

 夜間の教室。

 渡り廊下、屋上前の踊り場、グラウンドの端……。


 だけど、いちばん長く彼を見かける場所は、予想外な場所だった。


 それは、学校裏の小さな憩いの場。

 人通りが少なくて朽ちかけたベンチのある、誰にも気にされていないような小さな場所。


 私はたまたま──本当に、たまたまその道を通っただけだった。


 ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、缶コーヒーを持ったまま。古い鉄塔みたいな遊具の隣で、ただじっと彼は空を見上げていた。


(……また、いた)


 あの日から何度目になるだろう。


 気づかれないように、私は少し離れたベンチに座った。スマホをいじるふりをしながら、横目で彼を盗み見る。


 その横顔は、やっぱり、少し寂しげだった。


 泣きそうな顔──……でも、笑っているような顔。


 きっと誰にも心配されたくないから。

 優しすぎる人は、そうやって全部自分の中で処理しようとする。


 ……私も、そうだったから。


「……また会ったね」


 ある日、不意に声をかけられて、ビクッと肩が跳ねた。


 見上げると、彼が立っていた。

 作業着のまま、少しだけ汗のにじんだ額。でも、穏やかな目。


「……ストーカー?」


「……ちがう」


「じゃあ、たまたま?」


「……」


 答えられなかった。

 嘘も、冗談も、うまく言えなかった。


 彼はちょっとだけ笑って、私の隣に腰を下ろした。


 鼓動が速くなる。

 なのに、言葉は何も出てこない。


「この場所さ……誰もいないから、気に入ってるんだ」


「……アンタの、居場所?」


「うん。……ちょっとだけ、しんどい日とかに来る」


 しんどい日……。

 その言葉の意味を、私は痛いほど知ってる。


 きっと、家に帰りたくない日。

 学校じゃ笑えない日。


「……わかる」


 ふと、口から零れた。


 彼が私を見る。なにも訊かず、なにも聞き返さず、ただ静かに──まるで、それだけで十分だって言ってくれるみたいに。


 その目が優しくて、胸がいっぱいになった。


 泣きたいのは、そっちなくせに。


 どうして、そんな顔するの?

 どうして、そんな風に笑えるの?


 ずるい。

 でも、目が離せなかった。


「……名前、聞いてもいい?」


「……朝霧。朝霧あさぎりりん


「……朝霧さん、か」


 ゆっくりと呼ばれる自分の名前。

 何年ぶりだろう、誰かが丁寧に私を呼んでくれたのは。


 それだけで胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。


「俺は、三嶋。三嶋みしま湊人みなと


 ──知ってるよ。

 もう何度も、心の中で呼んでた。


 でも、声に出すのはきっと、まだ先。

 私はうなずくだけで、唇を引き結んだ。


 それだけで、充分だった。

 それだけで少しずつ変わり始めていた。


 冷たい風が頬を撫でて、私の髪を揺らす。


「……寒くない?」


 思わず聞いてしまうと、彼は首を振った。


「寒くは、ない。……でも、ちょっと疲れてたかな」


 その答えに、胸がぎゅっと締めつけられた。

 疲れているのは、私も同じだから。


「……ねぇ、スマホとかないの?」


「え?」


「……あったら、連絡先聞きたいなって思ったんだけど」


 すると湊人は眉を下げながらクシャッと笑った。どこか申し訳なさそうな、そんな感情を含ませながら。


「俺、持ってないんだよね。余裕がないって言うか。俺には贅沢品だから。朝霧さんは?」


「私? 持ってるけど……あんまり使わないかな」


 スマホの画面に映るSNSや連絡は、私を疲れさせることのほうが多かった。


 でも湊人は、スマホもなく誰とも繋がっていない。そして一人でこの夜の冷たさを受け止めている。そう思うと、羨ましいような……可哀想な。


「便利そうだけど、面倒くさそうだな」


 そう言いながら、彼は少しだけ笑った。


「俺は多分、そういうの苦手だ」


 言葉が途切れて、目を伏せる。


「……私たちって、似てるかもね」


 ぽつりと私が言うと、彼は顔を上げて不思議そうに私を見た。


「似てる?」


「うん。家に帰りたくない時があったり、笑うけど泣きそうだったり。無理に強がってる感じ」


 ゆっくり頷く湊人の目には、ほんの少しだけ寂しさの色が滲んでいた。


「俺、誰も信用してないから」


「私も……そう」


 言葉は少なかったけど、そこには言葉以上の理解があった。


「……名前で呼んでよ」


 突然、彼が言った。


「え?」


「いつもアンタって言うからさ。名前で呼んでほしいなって」


 頬が少し熱くなる。


「……わかった。三嶋くんって呼ぶ。だから三嶋くんも、名前で呼んで……?」


 そう答えると、湊人は照れたように目を逸らしながらも、少しだけ笑った。


 私も、自然と笑みが零れた。

 それは、どこかぎこちなくて、でも確かな一歩。


 誰かを名前で呼ぶことが、こんなにも心を近づけるのかと思った。


 風が止み、少しだけ暖かく感じた。

 夜の冷たさの中で、ふたりだけの小さなぬくもりが、静かに生まれていた。


 私たちはしばらく黙って隣り合って座っていた。


 ——……★


 その日の空はずっと灰色の空で、今にも降り出しそうな感じでくすぶっていた。だけど放課後には降り出して、強くなったり弱くなったり、不規則に音を奏でていた。


 それなのに、湊人は傘も持たないまま、雨に濡れながら校舎に向かって歩いていた。


「なんで傘を持ってこなかったの?」


 驚いた私は急いで彼の元へ駆けて行った。

 問いかけると、湊人は少しだけ顔をそむけて、答えた。


「そういうの、忘れやすいんだ。仕事のこととか、学校のこととか、色々あって……」


 私は彼の濡れた髪をタオルでそっと拭った。


「いつもこんな感じなの?」


「うん。ちょっと抜けてるんだよな」


「なんか、アンタっぽい」


 彼がクスッと笑う。笑顔はまだどこか痛々しくて、それでもとても優しくて。


「……朝霧さんは?」


「私は……逆に忘れないようにしてる」


 そう言いながら、ちょっと照れたように視線をそらした。


 私も本当は、彼みたいに時々忘れっぽくなりたいのかもしれない。

 そうすれば今を生きることに少しだけ、楽になれる気がしたから。


 湊人はまた小さく笑って、私の肩を軽く叩いた。


「似てるな、俺たち」


「え……? どこが? 私はアンタと違ってしっかりしてるから。忘れっぽいアンタと一緒にしないで?」


「ははっ、そっか。——ねぇ、入れて? 今更かもしれないけど」


 ふたりで分け合う小さな傘の下、冷たい雨を忘れるように寄り添った。


 傘の下、しばらく静かに雨音だけが響いていたけれど、ふと私は口を開いた。


「ねぇ、アンタ……凛って呼ぶって言ってたのに、また『朝霧さん』って……ズルいよ」


 彼は一瞬キョトンとした顔をしてから、笑いながら返す。


「え? けど朝霧さんも……俺のこと、名前じゃなくてアンタって呼んでるし」


 私も苦笑いを返しながら、拗ねて言った。


「確かに……お互い様だったね」


 湊人は少し照れたように目をそらしつつも、ぽつりと言った。


「じゃあ……凛って呼んでいい?」


 少し恥ずかしそうに、でもちゃんと口に出された呼び名に、心がじんわりと温かくなる。


「うん、私も……湊人って呼ぶ」


 ふたりの声が少しだけ重なって、雨音に溶けていく。


 名前を呼び合うだけで、こんなに近くなれるなんて、ちょっとだけ嬉しくて、ちょっとだけ切なくて。


「じゃあ、これからはお互い、ちゃんと名前で呼ぼうな」


 湊人の言葉に頷きながら、私はその温もりを胸にしまった。

 もう少しだけ、誰かを信じてみても悪くないかもって……私の中に希望が芽生えた。

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