15歳のわたしと、君だけの世界 ――夜の教室で出会ったふたり
仲村アオ
第一話 ————居場所のない子供たち
——わたしには、どこにも居場所なんてない。
昼間の喧騒が嘘みたいに、放課後の教室は静まり返っていた。
薄暗くなりはじめた空に照らされて、ガラス窓がじわりと赤く染まる。時間だけがゆっくりと流れていくなか、私は一人で教室の隅に座っていた。
帰りたくなかった。
あの家に帰っても、待っているのは母親のヒステリックな声と、知らない男の視線。
玄関を開けた瞬間から漂う、煙草と香水と、よくわからない男のにおい。
私の存在なんて、母にとってはもう邪魔でしかないんだろう。
「……はぁ」
小さく息を吐いて、頬杖をつく。
視線を落としたまま、ぼんやりと指先で机の傷をなぞるように撫でていた。誰にも話しかけられないのは気が楽。でも、誰も私を見ていないのは、少しだけ寂しい。
その時だった。
「……ん?」
開け放たれたドアの向こう。暗くなった廊下を、ゆっくりと歩いていく誰かの姿が見えた。
薄汚れた作業着に、大きめのジャンパー。年齢は……たぶん、私たちより少し上。無精髭こそないけど、どこか生活に疲れた大人の男って感じ。
だけど足取りはまっすぐで、背筋もぴんとしてて、妙にまぶしく見えた。
——誰?
気になって、つい立ち上がってしまった。廊下の窓に背を向けたまま歩いていくその後ろ姿には、妙な安心感があった。
ふわりと吹き抜けた夏の風が、汗ばんだ頬を撫でていく。
胸の奥に沈んでいたなにかが、わずかに揺れた気がした。
「あいつ、誰……?」
つぶやいた声が、ガランとした教室にやけに響いた。
誰とも群れないくせに、どこか温かい空気を纏っていたあの背中。
同じ教室にいる誰よりも遠い存在なのに、私の世界に一歩だけ踏み込んできたような錯覚。
——名前も知らないのに。
なのに、もう目が離せなかった。
私はその日、初めて、帰りたくない理由が『家』じゃなくなった。
——……★
かかとを擦るように廊下を進む。足音が響かないように、なるべく静かに。
あの人が見えてから胸の奥で、ずっと何かがくすぶっている。
「……どこ行ったの?」
階段を降りると、誰もいない下足室が広がっていた。夏の夕暮れ……窓の隙間から差し込む橙の光の中にその姿があった。
彼は誰もいない昇降口に立ち尽くしていた。
手には使い古されたスニーカー。泥汚れのついた作業ズボンに、くたびれたジャンパー。
けれどその背中は、教室で見る同級生たちの誰よりも、真っ直ぐだった。
「……なにしてんの、アイツ」
誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた瞬間、彼がゆっくりと動いた。
昇降口のガラス越しに、外の校庭をじっと眺めている。
その視線の先には──誰もいないグラウンド。
誰もいないのに、懐かしそうに……いや、憧れるように。
「……走ってみたかったのかな」
口に出して、自分でも驚いた。
教室の机でうたた寝するクラスメイトたち、休み時間に笑いながらジュースを回す女子グループ。
汗だくでボールを追いかける男子たちの姿。
……そういう、普通の高校生活。
たぶんあの人は、それを知らない。
だから今、こうして立ち止まってる。
ほんの数分でも、自分が高校生だった時間を感じたくて。
「……変なの」
そう思ったのに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
人を羨む気持ちって、嫌いだったはずなのに。
この人のそれだけは、どうしてか……痛いくらい優しく見えた。
ゆっくりと彼は踵を返し、今度は別棟へと歩き出す。
夜間の生徒たちが集まる教室へ向かうのだろう。だけど、その足取りには、ほんの少しだけ迷いが混じっていた。
私はそれを廊下の影から、ただ見ていた。
胸がどくん、と鳴った。
——気づいて。
この時私は、ふいにそう思ってしまった。
この胸の高鳴りが、何なのかなんてまだ分からない。
でも、見ていたい。もっと知りたい。
そう思ってしまったのは、たぶん、私が他人に初めて興味を持ったから。
カラカラと、彼の足元で床が鳴る。
静かな廊下の向こう、作業服の背中がゆっくり遠ざかっていく。
「……三嶋、湊人……」
昇降口の名簿。今、彼が上履きを取り出したとき、目に映った札の名前。
名前を知っただけで、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
初めて、誰かの名前を覚えたいって思った。
——私の物語が、少しずつ、動き始めていた。
———……★
それから、私は毎日のように放課後の教室に残るようになった。
家に帰りたくないから──それは少し前までの言い訳で、今は彼を一目でも見たいから。
名前を知ってしまったあの日から、私は何度も校内で三嶋湊人の姿を探していた。
汚れた作業着。大きなジャンパー。校舎のどこにも溶け込まないその服装なのに、不思議と、彼はここにいてもいい人に見えた。
時々、校庭の端で自販機を使っていたり、誰もいない渡り廊下で空を見上げていたり──。
でも、その姿はいつも一瞬で、声をかける勇気なんて出ないまま、私はただ隠れて見つめるだけだった。
「……アイツ、何してんのよ」
見かけるたびに、そう呟いてしまう。
遠巻きに見ているだけの私のことなんて、知りもしないのに。
そんな日々が、しばらく続いた。
でも、その日は、彼は来なかった。
夕方五時を過ぎても、六時になっても。
日が落ちて、教室に静かに影が伸び始めても──三嶋湊人の姿は現れなかった。
(……今日は、いないのかな)
窓の外で風が葉を揺らす音だけが響く。
じっとしていた背中を伸ばして、私は諦めて立ち上がった。
名残惜しさを引きずるように、ゆっくりと鞄を手に取って教室を出る。
階段を下って廊下を歩く。下足室はもう薄暗くて、人気はなかった。
──その時だった。
「……ん」
何気なく曲がった廊下の角。
その向こうに、人影があった。
汚れた作業服。いつもの大きめのジャンパー。
今まさに、上履きを脱いで下足箱を開けようとしている、あの背中。
(……いた)
鼓動が跳ねる。
いつものように隠れようとした瞬間、体が動こうとして……けれど、できなかった。
そのとき、彼がこっちを向いたから。
「……あ」
目が合った。
逃げる前に、完全に捕まってしまった。
まっすぐな黒目。思ったよりも柔らかい顔立ち。
遠目でしか見ていなかったのに、こうして真正面で見られると、どうしようもなく心が騒ぐ。
「……あー」
彼が、口を開いた。
「……ごめん、えっと、君……この学校の子?」
……バカみたいに、心臓がドクドクいっている。
「……何、アンタ……夜間の生徒でしょ?」
思わず、口が勝手に動いた。
知らないふりなんて、もうできなかった。
湊人は少し目を見張ったあと、口元を少しだけ緩めて、小さく笑った。
「……ああ、ばれてたか。ごめんね、ちょっと早く来すぎたかなって。……邪魔だった?」
「……別に」
ぶっきらぼうに返すことしかできなかった。
本当は可愛く話しかけたいのに、心の中はぐちゃぐちゃだった。
初めて、会話した。
初めて、目を見て話した。
この人の声は思ったよりも低くて優しい。
そして、その笑顔は……ひどく眩しかった。
私のことなんか見ないで——そう思ったはずなのに、もう一度、ちゃんと見てほしいと願ってしまうほどに。
「じゃあ……また」
彼が靴を履いて、歩き出す。
廊下の向こう、外の空気へ向かうその背中に──今度は私の方が目を離せなくなっていた。
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