第一章:アトリエは今日も戦場
第1話 早朝の混沌、専属モデルの受難
じりりり、とけたたましいアラーム音で、俺の意識はゆっくりと覚醒する。差し込む朝日がやけに目にしみる。重い瞼をこじ開けると、見慣れたアトリエの天井が広がっていた。
「……また朝か」
鉛のように重い体を起こすと、隣のロフトベッドから、芸術家先生の盛大ないびきが聞こえてきた。「グゴーッ、グゴーッ」と、まるで壊れた楽器のような音だ。このアトリエの主、怜さんは、今日も今日とて安らかな眠りについていらっしゃるらしい。
俺はよろよろと立ち上がり、怜さんの眠るロフトベッドへ向かう。
「怜さん、朝ですよ。起きてください」
「んん……あと5分……いや、永遠に……僕を眠りの国の王にしてくれ、彰……」
「そういうのいいんで、起きてください」
布団にくるまってミノムシのように駄々をこねる怜さん。俺はため息をつき、その布団を容赦なくひっぺがす。
「うわあっ! 彰、冷たい! 僕の芸術的感性が凍えてしまう! 温めてくれ、君の体温で!」
「自分で起き上がれば温まりますよ」
俺の足に絡みついてくる怜さんを冷静に引き剥がし、リビングと化したアトリエの一角へ向かう。さて、今日の朝食は何にしようか。期待せずに開けた冷蔵庫の中は、案の定、カビたちの王国が築かれていた。緑色のカビはかつてピーマンだったもの、白くてふわふわしているのはパン……いや、チーズか? もはや原型を留めていない。
「……たく。古代遺跡の発掘調査みたいになってきたな」
俺はかろうじて無事だった卵と、賞味期限が怪しいベーコンを手に取り、手早く朝食の準備を始める。僕がキッチンに立つと、いつの間にか起きてきた怜さんが、背後からうっとりと俺の作業を眺めていた。
「彰の奏でる包丁の音は、生命のプレリュードだ……フライパンの上で踊る卵は、僕の心をときめかせる……」
「ポエムはいいんで、少し離れてもらえませんか。油がはねますよ」
出来上がった質素な朝食をテーブルに並べると、怜さんは恍惚とした表情でそれを眺めていた。
「おお、彰……君の作る朝食は、僕の生命の源泉だ…この黄金色のスクランブルエッグは、まるで昇る太陽のようだ……」
「太陽じゃなくて卵です。あと、それ俺のなけなしの金で買ったやつなんで、ちゃんと味わって食べてください」
「このベーコンの縞模様は、人生の悲喜こもごもを表しているようだね……」
「ただの焦げ目です」
大袈裟な賛辞と俺の冷静なツッコミの応酬の後、怜さんは「それもまた、芸術的だね……」とか呟きながら、ようやく食事にありついた。
腹ごしらえを終えれば、いよいよ午前中の作画タイムだ。俺は手慣れた様子で服を脱ぎ、いつもの定位置に立つ。
「彰、もっとこう……内なる宇宙の爆発を表現してくれ。君の左の肩甲骨に、憂いを帯びた天使が宿っているのが見える! 彼を解き放ってくれ!」
(宇宙爆発の次は天使かよ……肩甲骨で天使とか、もうヨガの領域だろ……)
怜さんの抽象的すぎる指示に、内心「んなもん分かるか!」とツッコミを入れつつ、俺は適当にポーズを取る。足が痺れてきて、少し体勢を崩した瞬間だった。
「そう! それだ彰! 君は天才だ! その計算のない肉体の揺らぎこそ、僕が求めていたものだ!」
(いや、ただ足が痺れただけなんだけど……)
怜さんは俺の裸体に異常なまでの集中力を見せ、その瞳は狂気にも似た輝きを放っていた。
しばらくして、怜さんが「休憩にしよう」と筆を置いた。俺がほっと一息ついたのも束の間、背後から突然、怜さんが抱きついてきた。
「彰……君はなんて美しいんだ……その肌は上質なキャンバスのようだ……匂いもいい……」
「はいはい、ありがとうございます。汗臭いだけですよ」
耳元で囁かれる甘い言葉。俺はその腕を、冷静に、しかし力強く、引き剥がした。
「それより、そろそろ昼飯の準備しないと、またカビが増えますよ」
「昼食などいらない! 君というご馳走が目の前にいるというのに!」
「俺は食えません」
俺の現実的な言葉に、怜さんは「ああ、現実とはなんと無粋なのだろう……」と、大げさに天を仰ぐのだった。
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