裸のミューズは僕のもの
火之元 ノヒト
プロローグ
「なんで俺、こんな生活してるんだろう……」
広大すぎるアトリエに響くのは、俺の小さすぎる独り言と、絵筆がキャンバスを小気味よく擦る音だけ。ツンと鼻につく油絵の具の匂いと、なんだか埃っぽい空気。視線を足元に落とせば、描きかけの俺の裸体画が、まるで落ち葉みたいに何枚も、何枚も積み重なっている。
いや、正確には、そこら中に転がる絵の具のチューブとか、脱ぎっぱなしの怜さんのスウェットとか、食べ散らかされたスナック菓子の袋なんかも混じって、ちょっとしたゴミの地層を形成しているか。
俺は慣れた手つきで、足の指に引っかかったウルトラマリンのチューブを拾い上げ、ついでにゴミ箱から威勢よくはみ出ていたコンビニ弁当の容器を、ぐいっと中に押し込んだ。家主である怜さんは、そんな俺の健気な努力をちらりとも見ない。当たり前だ。彼は今、まさに俺の裸体を描くという、彼にとっての聖なる儀式の真っ最中なのだから。
「ああ、彰……君はなんて美しいんだ……その鎖骨の窪みに、宇宙の神秘が見える……」
恍惚とした怜さんの声が、がらんとしたアトリエに響く。俺の正面に立つイーゼルに全神経を集中させている彼は、俺がちょっと身じろぎしたことにも、ましてや俺の思考が今日の夕飯のことで埋め尽くされていることにも気づくはずがない。
冷蔵庫のピーマン、そろそろ限界だよな。人参も怪しい。賞味期限がはるか昔に切れた牛乳は、たぶん僕が捨ててない限り、まだある。あれはもう、新たな生命の誕生すら期待できるレベルだ。
時折、怜さんが「はっ!」と息を呑んで筆を止める。「彰! 今、僕に閃きが舞い降りた!」とか叫び出すのがお決まりのパターン。大体は、俺の足の小指の絶妙な反り具合がどうとか、首の傾きが黄金比だとか、そんなマニアックにもほどがある指摘だ。その度に俺は「はいはい、よかったですね」と適当に相槌を打つ。俺の思考はとっくにアトリエを飛び出して、近所のスーパーの特売品コーナーを駆け巡っているというのに。
一体、この奇妙で、異常に平和で、そして呆れるほどに手のかかる生活は、いつから始まったんだろう?
俺と、この天才にして生活能力ゼロの変人芸術家との共依存は、いつからこんなにも当たり前の日常になったんだろうか。
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