第5話 迷宮の出口と帝国の影
地の底から這い上がるように、悠斗たちは迷宮の最終区画を抜けた。長い階段を上りきった先に現れたのは、青空と雲が織りなす見慣れた景色だった。
「やっと……やっと出られた」
リアが膝をつき、安堵の息を漏らす。エルフの彼女でさえ、あの地獄のような迷宮では限界だったのだろう。その横で、ミラが魔力で周囲を探査している。
「帝国の結界が張られているわね。ここは自由都市シルヴァリスの郊外のようよ」
悠斗は無言で立ち上がり、遠くに見える街の方角を見つめた。カインたちの足跡を追うために、まずは情報収集が必要だった。
「悠斗……」
リアが心配そうに声をかけたが、悠斗は振り返らない。迷宮で得た禁断の力が、彼の内側で静かに脈打っている。復讐への渇望が、まるで生き物のように蠢いていた。
「行こう。カインたちはこの街を通ったはずだ」
その声は、以前の悠斗とは明らかに違っていた。冷たく、感情を押し殺したような響きがあった。
リアとミラは顔を見合わせた。二人とも、悠斗の変化を感じ取っていた。迷宮で禁断の錬金術を学んでから、彼の中の何かが確実に変わっている。そして最近、その変化は加速度的に進んでいるように見えた。
「私たち、本当にこのまま彼についていって大丈夫なのかしら」ミラがリアに小声で話しかける。
「分からない……でも、一人にはできない」リアの声にも不安が滲んでいた。「きっと、まだ悠斗は戻ってこられる」
二人は、それぞれ違う思いを抱きながら悠斗の後を追った。
◇
シルヴァリスの街に足を踏み入れた瞬間、悠斗は息を呑んだ。
街の建物は白い石材と魔力を帯びた銀木を組み合わせた優美な造りで、路地の角々には青白い魔力の光を宿した街灯が浮遊している。空中に描かれた魔法陣が常に回転し、街全体を結界で覆っているのが見えた。石畳の道には魔力を導く銀の線が埋め込まれ、歩くたびに微かな光を放つ。
しかし、美しい街並みとは裏腹に、そこを行き交う人々の表情は暗かった。
市場では商人たちが声を潜めて商談し、魔力で保存された食材や薬草が並ぶ屋台からは甘い香辛料の匂いが漂っているが、客足は明らかに少ない。人々の服装も、本来なら色とりどりの魔力染料で染められているはずの布が、どれも地味な茶色や灰色ばかりだった。
「魔力薬草が随分と高いわね」ミラが屋台の値札を見て呟く。「これじゃ一般の人は買えない」
「あっちの武器屋も……」リアが指差す。「全部帝国製ね。他の国の商品が見当たらない」
悠斗は二人の会話を聞きながら、違和感の正体を掴みつつあった。この街は確かに美しく、魔法技術も発達している。しかし、それらすべてが帝国の管理下に置かれているのだ。
「おかしいな……」ミラが眉をひそめた。「自由都市なのに、帝国色が強すぎる」
その時、街の向こうから太鼓の音が響いてきた。民衆が ざわめき始め、皆が一斉に中央広場の方向へ向かっていく。
「何かしら?」リアが首をかしげる。
「行ってみよう」悠斗が言った。
街の中央広場では、帝国の魔法使いが民衆に向かって演説していた。立派な法衣に身を包んだ男は、魔法で声を増幅させながら高らかに宣言する。
「魔王の脅威は日に日に増している!昨日も辺境のグリーンヒル村が襲撃されたという報告が入った!しかし我らが勇者カイン様が駆けつけ、見事に魔物を退治してくださった!我々には帝国の庇護が必要なのだ!」
その瞬間、悠斗の心臓が凍りついた。
カイン。
その名前を聞いた途端、悠斗の血管に沿って黒い線が這い始め、首筋まで伸びながらリアの手にまで届きそうな気配を見せた。心臓が氷のように冷たくなり、記憶の断片がちらつく——カインの笑顔、裏切りの瞬間、奈落に落ちる感覚——それらが混濁し、現実と過去の境界が曖昧になった。
「っ……」
脳の奥で鋭い痛みが走り、一瞬、周囲の音が遠のく。
「悠斗!」
リアの声で我に返る。リアは、悠斗の手を握る自分の手が意思とは無関係に震えているのに気づき、恐怖と同時に深い悲しさを感じていた。彼女の緑の瞳には、明らかな恐怖の色があった。
「大丈夫?顔が……」
ミラも青ざめていた。魔導士である彼女には、悠斗の魔力が制御を失いかけているのが見えていた。「悠斗、あなたの目……一瞬、完全に黒くなった」
悠斗は手で顔を覆った。自分でも分かっていた。禁断の力が、確実に彼を蝕んでいる。そして今、カインの名前を聞いたことで、その侵食が一気に加速した。
演説は続いていた。
「カイン様は、魔王討伐のために帝都へ向かわれた!しかし、魔王の手下どもは各地で暴れ回っている!皆さん、帝国の指導に従い、疑わしい者がいれば即座に報告してください!」
民衆の中から、小さなざわめきが起こった。しかし、衛兵たちがその方向を見ると、すぐに静まった。
悠斗は演説を聞きながら、掲示板の方へ向かった。そこには、さらに詳細な情報が記されていた。
『勇者カイン様、グリーンヒル村にて魔物の群れを単独で撃破。村人たちからは「真の英雄」として讃えられる。帝国魔導院からも特別功労賞を授与される予定』
さらに下には、カインの肖像画まで描かれていた。金髪を風になびかせ、聖剣を構える凛々しい姿。まさに「勇者」そのものの描かれ方だった。
「……英雄だと?」
俺を裏切り、奈落に突き落とした男が、英雄として讃えられている。
その理不尽さに、黒い線がさらに濃くなった。
「俺は……何のために生き延びた?」
「悠斗!」ミラが彼の肩を掴んだ。「このままじゃ、あなたは人間でなくなってしまう」
その言葉で、悠斗は我に返った。黒い線が一瞬だけ薄くなる。完全には消えないが、悠斗の理性が辛うじて勝ったのだ。
ミラとリアの表情を見て、悠斗は自分がどれほど危険な状態にあるかを理解した。このままでは、復讐どころか、大切な仲間まで失ってしまう。
「すまない……」悠斗が呟く。「俺は……」
「今は大丈夫」リアが優しく言った。「でも、もう一人で抱え込まないで」
ミラも頷いた。「私たちがいる。忘れないで」
悠斗は二人の言葉に救われた気がした。復讐心は確かに強いが、今の自分には仲間がいる。一人ではない。
宿に部屋を取った後、悠斗は一人で街を歩いていた。情報収集という名目だったが、実際は頭を冷やしたかったのだ。
夕暮れ時の街は、昼間よりもさらに陰鬱な空気に包まれていた。魔力の街灯が自動的に明るさを増し、石畳に埋め込まれた銀の線がより鮮やかに光る。しかし店じまいをする商人たちの動作は急いており、香辛料を焼く匂いや魔力薬草の甘い香りが漂う中を、人々は早足で家路につく。
悠斗は、街の人々の表情をよく観察してみた。皆、どこか怯えているように見える。子供たちは親の陰に隠れ、大人たちは小声で話している。
酒場の前を通りかかった時、中から大きな声が聞こえてきた。
「また村が一つ『魔王の手下』の疑いで封鎖されたらしいぞ」
「本当かよ……グリーンヒルの次はどこだ?」
「俺たちも気をつけないとな。疑われたら終わりだ」
悠斗は足を止めた。魔王の脅威というのは、本当に存在するのだろうか。それとも、帝国が民衆を支配するための口実なのだろうか。
その時、街の路地裏で小さな泣き声が聞こえてきた。
悠斗が近づくと、五歳ほどの男の子が一人で泣いていた。服はボロボロで、顔は汚れている。
「どうした?」
悠斗が声をかけると、子供は怯えた表情で顔を上げた。
「お、お兄ちゃん……帝国の人?」
「いや、違う。旅の者だ」
悠斗は努めて優しい声で答えた。すると、彼の中で黒い線が少し薄くなった。
「お母さんが……お母さんが帝国の人に連れて行かれちゃった。『魔王に協力した』って言って……でも、お母さんはそんなこと絶対してない!」
子供の言葉に、悠斗は衝撃を受けた。やはり、帝国は魔王の脅威を口実に、無実の民衆を弾圧している。
「お母さんはどこに?」
「牢屋……帝国の牢屋に入れられた。でも僕、どうしたらいいか分からない……お父さんはもういないし、お母さんがいなくなったら僕は……」
子供の涙を見て、悠斗の心に何かが芽生えた。この子の苦しみは、自分がカインに感じている苦しみと同じではないか。理不尽に大切なものを奪われる痛み。
しかし、この子は何も悪いことをしていない。ただ生まれた場所と時代が悪かっただけだ。
「お兄ちゃんの名前は?」
「タロウ……」
子供は鼻をすすりながら答えた。悠斗はタロウの前にしゃがみ込み、目線を合わせた。
「タロウ、俺の名前は悠斗だ。必ず母さんを助け出してやる」
タロウの目に希望の光が宿る。そして、小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃんは……僕の勇者?」
その一言で、悠斗の胸に電撃が走った。
勇者。
カインが「勇者」として讃えられている一方で、自分は見捨てられた。しかし今、この小さな子供は、自分を「勇者」と呼んだ。
その瞬間、黒い線は、まるで霧が晴れるように、悠斗の体から消えていった。
「ああ」悠斗は微笑んだ。「君の勇者だ」
タロウは初めて笑顔を見せた。その純粋な笑顔が、悠斗の心を温かくした。
「でも、タロウ。今夜はどこに泊まるんだ?」
「教会……でも、神父様も帝国が怖くて、あんまり僕の世話はできないって……」
悠斗は考えた。このまま子供を一人にしておくわけにはいかない。
「今夜は俺の宿に来い。明日、必ず母さんを助ける」
「本当?」タロウの目が輝いた。
「約束だ」
悠斗はタロウの手を取り、宿へ向かった。その道すがら、彼は自分の中で何かが根本的に変わったことを感じていた。
復讐も大切だ。しかし、それ以上に大切なものがある。目の前で苦しんでいる人を救うこと。それこそが、本当の「勇者」がすべきことなのかもしれない。
◇
宿に戻ると、リアとミラが心配そうに待っていた。そして、悠斗と一緒に現れたタロウを見て、すぐに事情を察した。
「悠斗、どこに行ってたの?」リアが駆け寄ってくる。「なんだか顔色が……良くなってる?」
悠斗は二人に、タロウとの出会いについて詳しく説明した。話を聞くうちに、リアの表情は憤りの色を帯び、ミラは冷静に分析していた。
「帝国のやり方は確かに問題ね」ミラが言う。彼女の指先が無意識に魔力を探るように動いていた。「魔王の脅威を利用して、民衆を支配している」
「ひどい……」リアが拳を握りしめる。その手は微かに震えていた。
一方で、タロウはリアとミラの優しさに触れて、少しずつ心を開いていた。
「お姉ちゃんたちも、悠斗お兄ちゃんの仲間?」
「そうよ」リアが優しく答える。「私たちみんなで、タロウのお母さんを助けるからね」
ミラも頷いた。「任せておきなさい」
タロウは安心したように微笑んだ。
「俺は明日、その牢屋に向かう。タロウの母親を助け出す」
「危険よ」ミラが警告する。「帝国に目をつけられたら、カインを追うどころじゃなくなる。それに、禁断の錬金術を使えば……」
「分かっている」悠斗が遮った。「でも、これは俺が決めたことだ。タロウを見捨てることはできない」
「それでも、やらなければならない」
悠斗の声に、新しい決意が込められていた。それは復讐とは違う、もっと深い何かだった。
「私も行く」リアが言った。「一人では危険すぎる。それに……私も、その子を見捨てることはできない」
「私も付き合うわ」ミラも続いた。「面白そうじゃない。それに、帝国の実態を調べるいい機会でもある」
悠斗は振り返り、二人の顔を見た。そこには、彼を心配する優しさと、共に戦う意志があった。
「ありがとう」
その夜、四人は一つの部屋で過ごした。タロウは悠斗の隣で安心したように眠り、リアとミラは交代で見張りをした。
復讐は確かに重要だった。カインへの怒りは消えない。しかし、悠斗は気づき始めていた。復讐だけでは、本当に大切なものは守れない。そして、復讐心だけでは禁断の力に飲み込まれてしまう。
本当に必要なのは、バランスだった。復讐心と、人を救いたいという純粋な願い。その両方があってこそ、彼は人間らしさを保てるのかもしれない。
窓の外では、帝都へと続く街道が月明かりに照らされていた。カインたちはその先にいる。しかし悠斗は、もう焦ってはいなかった。
「明日は早いぞ」悠斗が小声で言う。「十分に休んでおけ」
その夜、悠斗は久しぶりに悪夢を見なかった。復讐の炎は消えていないが、それと同じくらい強い別の光が心の中で輝き始めていた。
窓の外では、タロウが宿の前で母の帰りを信じて空を見上げていた。その小さな背中を見て、悠斗は心の奥に誓った。
——俺が、この子の世界を守る。
タロウの言葉が、心の奥で響いていた。
「お兄ちゃんは……僕の勇者?」
そうだ。自分は誰かの勇者になれるのだ。カインのような偽りの英雄ではなく、本当に人を救う勇者に。
そして、その光こそが、彼を禁断の力から救う唯一の希望なのかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます