桜散りて、想い残りて

トムさんとナナ

桜散りて、想い残りて

## 第一章 現代より来たりし女


「うわああああ!」


現代のOL、田中美咲(たなか みさき)は、交通事故の瞬間を最後に意識を失った。次に目を覚ましたとき、そこは見知らぬ畳の部屋だった。


「お嬢様、お目覚めですか」


振り返ると、時代劇でしか見たことのない格好をした女性が座っていた。美咲は慌てて自分の姿を確認する。手鏡を覗き込むと、そこには見覚えのない美しい顔があった。


「え、えーっと…私は?」


「お嬢様は水野千鶴(みずの ちづる)様でございます。織田信長様の側室として、この安土城にお住まいになられております」


「織田信長の…側室…?!」


美咲──いや、千鶴は頭を抱えた。まさか戦国時代に転生するなんて。しかも推し武将だった織田信長の側室として。


「これは…夢よね?きっと夢よ!」


千鶴は自分の頬をつねってみた。痛い。現実だった。


「お嬢様、お顔を赤くされて…熱でもおありですか?」


「い、いえ、大丈夫です。ところで、今は何年でしょうか?」


「天正九年でございます」


千鶴は歴史の知識を必死に思い出した。天正九年といえば1581年。本能寺の変の前年だ。


「そ、そうですか…」


動揺を隠しきれない千鶴に、侍女は心配そうに声をかけた。


「お嬢様、今日は信長様がお戻りになられます。お支度をいたしましょう」


「の、信長様が…?」


千鶴の心臓は早鐘のように鳴った。現代では歴史の教科書や大河ドラマで見るだけだった憧れの武将に、実際に会えるのだ。


## 第二章 憧れの人との邂逅


安土城の大広間で、千鶴は他の側室たちと共に信長の帰還を待っていた。


「千鶴様、お顔が青ざめておりますが…」隣に座る側室、松永雪乃(まつなが ゆきの)が心配そうに声をかけた。


「あ、ありがとうございます。少し緊張しているだけです」


「信長様は恐ろしいお方ですからね。でも、千鶴様は美しいので、きっとお気に入りになられますわ」


そのとき、重々しい足音が聞こえてきた。


「信長様のお通りじゃ!」


家臣の声と共に、その人は現れた。


黒い着物に身を包み、鋭い眼光を持つ男性。まさに千鶴が現代で憧れ続けてきた織田信長その人だった。


「皆の者、ご苦労であった」


信長の声は低く、威厳に満ちていた。千鶴は胸がドキドキして、思わず息を呑んだ。


「新たに側室となった者はおるか?」


「はい、水野千鶴にございます」


家臣に名前を呼ばれ、千鶴は震える足で前に出た。


「ほう、美しい女子だな。近こう寄れ」


千鶴は恐る恐る信長に近づいた。信長は千鶴の顔をじっと見つめた。


「そなた、妙な顔をしておるな。まるで余を見たことがあるような…」


「そ、そんなことは…」千鶴は慌てて否定した。


信長は興味深そうに千鶴を見つめ続けた。


「面白い。今度、余の書斎に来い。話がある」


## 第三章 秘められた想い


その夜、千鶴は信長の書斎を訪れた。部屋には蝋燭の明かりが揺らめき、信長は地図を広げていた。


「来たか、千鶴」


「はい、信長様」


「そなた、読み書きはできるか?」


「はい、できます」


実際、現代の教育を受けた千鶴にとって、読み書きは当然のことだった。


「それでは、この書状を読んでみよ」


信長が差し出した書状を読んだ千鶴は、驚いた。それは九州の大名からの降伏の申し出だった。


「見事だ。そなた、ただの美女ではないな」


信長は満足そうに頷いた。


「信長様、あの…質問があります」


「何だ?」


「信長様は、天下統一の後、どのような世を作りたいとお考えですか?」


信長は驚いたような表情を見せた。側室からそのような質問を受けることは珍しかったからだ。


「面白いことを聞く。余は、古い因習にとらわれない、新しい世を作りたいのだ。身分に関係なく、才能ある者が活躍できる世を」


千鶴の心は躍った。これこそ、自分が現代で憧れていた信長の理想だった。


「素晴らしいお考えです」


「そなたも、そう思うか?」


「はい。人は生まれた身分ではなく、その人の心や行いで判断されるべきだと思います」


信長の目が輝いた。


「そなたとは、もっと話をしたい。また来い」


千鶴の胸は高鳴った。憧れの人との距離が、少しずつ縮まっているような気がした。


## 第四章 現代知識の活用


数日後、千鶴は再び信長の書斎に呼ばれた。


「千鶴、そなたに頼みがある」


「何でございましょうか?」


「この城の食事の管理を任せたい。腐敗を防ぎ、より多くの者に行き渡らせる方法を考えてほしい」


千鶴は内心でガッツポーズをした。これは現代知識の出番だ。


「承知いたしました。まず、食材の保存方法を見直してはいかがでしょうか」


千鶴は塩漬け、燻製、発酵などの保存技術を詳しく説明した。さらに、栄養バランスを考慮した献立の提案も行った。


「見事だ。そなたの知識は一体どこで身につけたのだ?」


「えーっと…旅の僧侶から学びました」


苦し紛れの嘘だったが、信長は納得したようだった。


数週間後、千鶴の提案を実行した結果、城内の食事情が大幅に改善された。兵士たちの体調も良くなり、信長は大いに満足した。


「千鶴、そなたのおかげで、この城の者たちがより健康になった。感謝しておる」


信長の感謝の言葉に、千鶴の心は温かくなった。自分が少しでも役に立てているのだ。


## 第五章 深まる絆と忍び寄る影


秋が深まった頃、信長と千鶴の関係はより親密になっていた。二人は定期的に書斎で政治や哲学について語り合うようになった。


「千鶴、そなたと話していると、心が落ち着く」


「私もです、信長様」


千鶴の気持ちは確実に恋に変わっていた。しかし、同時に心の奥底では不安も感じていた。1582年6月2日、本能寺の変。歴史を知る千鶴には、信長の最期が見えてしまっていた。


「信長様、明智光秀という方を、どう思われますか?」


何気なく聞いた千鶴の質問に、信長は眉をひそめた。


「光秀か。有能な男だ。少々神経質なところがあるが、忠実に仕えておる」


千鶴は複雑な気持ちになった。歴史を変えることができるのだろうか。それとも、変えてはいけないのだろうか。


その夜、千鶴は一人で庭を歩いていた。月明かりが桜の木を照らしている。


「千鶴様」


振り返ると、雪乃が立っていた。


「雪乃さん、どうしたのですか?」


「千鶴様、信長様に愛されているのですね」


「え?」


「お隠しになっても分かります。信長様の千鶴様を見る目が、他の側室とは違います」


千鶴は慌てた。


「そんなことは…」


「羨ましいです。でも、気をつけてくださいね。他の側室たちの中には、面白く思わない方もいらっしゃいます」


雪乃の忠告は的中した。翌日、千鶴は他の側室から冷たい視線を向けられるようになった。


## 第六章 試練の時


冬になると、城内に不穏な空気が漂い始めた。各地で一揆が起こり、信長は出陣の準備を進めていた。


「千鶴、余が留守の間、そなたに城の事務を任せたい」


「え、私にですか?」


「そなたなら大丈夫だ。信頼しておる」


信長の信頼に千鶴は感激したが、同時に他の側室たちの嫉妬がさらに強くなることも予想できた。


信長が出陣した後、予想通り千鶴への風当たりは強くなった。


「水野殿は信長様にお気に入りいただいて、よろしゅうございますこと」


皮肉混じりの言葉を浴びせられることもあった。しかし、千鶴は信長から託された仕事を懸命にこなした。


ある日、城下町で病気が流行した。千鶴は現代の知識を活かして、手洗いうがいの徹底、隔離政策、薬草を使った治療法を指導した。


「千鶴様のおかげで、多くの命が救われました」


城下の人々から感謝され、千鶴は自分の存在意義を実感した。


信長が戻ってきたとき、城下町の病気が治まっていることを知って、大いに驚いた。


「千鶴、そなたは一体何者なのだ?」


信長の問いに、千鶴は微笑んだ。


「ただの、信長様をお慕いする女にございます」


## 第七章 告白と運命の受け入れ


春が訪れた天正十年(1582年)、千鶴と信長の関係はさらに深まっていた。


ある夜、満開の桜の下で、二人は語り合っていた。


「千鶴、そなたといると、余は新しい世界が見える」


「信長様…」


「そなたがいてくれて、よかった」


信長の言葉に、千鶴の心は満たされた。しかし、同時に切ない気持ちも込み上げてきた。本能寺の変まで、あと数ヶ月しかない。


「信長様、私はあなたを…」


千鶴が告白しようとしたとき、信長が口を開いた。


「千鶴、そなたも余を愛しているのか?」


「はい…」


「だが、余は天下人だ。正室はすでにいる。そなたは側室として、一生を過ごすことになる」


「それでも構いません」


千鶴の答えに、信長は複雑な表情を見せた。


「すまぬ、千鶴。そなたのような女性に、もっと幸せを与えてやりたいのだが…」


「いいえ、信長様。あなたをお慕いできるだけで、私は幸せです」


二人は静かに桜を見上げた。散り始めた花びらが、月明かりに照らされて舞い踊っている。


「桜のように、美しく、はかないものだな…」


信長の呟きが、千鶴の胸に深く響いた。


## 第八章 最後の時


1582年6月1日の夜、千鶴は信長に呼ばれた。


「千鶴、明日、余は京に向かう」


千鶴の血の気が引いた。ついに、その時が来た。


「お気をつけて」


千鶴は精一杯、平静を装った。


「そなた、妙な顔をしておるな。何か心配事でもあるのか?」


「いえ、ただ…お側にいられないのが寂しくて」


信長は千鶴の手を取った。


「心配するな。すぐに戻ってくる」


千鶴は信長の手を握り返した。温かく、力強い手だった。


「信長様、私は…あなたに出会えて、本当に幸せでした」


「何を急に…まるで別れの挨拶のようだな」


千鶴は微笑んだ。


「そんなことありません。ただ、お伝えしたかっただけです」


翌朝、信長は本能寺に向けて出発した。千鶴は城の窓から、その後ろ姿を見送った。


「どうか、ご無事で…」


しかし、千鶴は歴史を知っている。信長は、もう戻ってこない。


## 第九章 悲報と新たな決意


6月2日の夜明け、悲報が届いた。


「本能寺にて、信長様が明智光秀に討たれました!」


城内は大混乱に陥った。側室たちは泣き崩れ、家臣たちは復讐を誓った。


千鶴は静かに自分の部屋に戻った。涙は出なかった。あらかじめ覚悟していたことだった。


「千鶴様…」


雪乃が心配そうに部屋を訪れた。


「大丈夫です」


「でも、千鶴様は誰よりも信長様を愛していらしたのに…」


「だからこそ、泣いている場合ではありません」


千鶴は立ち上がった。


「信長様の意志を継ぐ方のために、私にできることをしなければ」


千鶴は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の陣営に身を寄せることを決めた。現代の知識と信長から学んだことを活かして、新しい世の礎になろうと考えたのだ。


## 第十章 新たな道


秀吉の陣営で、千鶴は政務の補佐を行うようになった。信長から学んだ統治の理念と現代の知識を組み合わせて、より良い政策を提案した。


「千鶴殿の知恵は、まことに素晴らしい」


秀吉も千鶴の能力を高く評価した。


ある日、千鶴は安土城の跡地を訪れた。既に建物の多くは焼け落ちていたが、信長と過ごした書斎の場所は分かった。


「信長様、私は元気にやっています」


千鶴は空に向かって語りかけた。


「あなたの夢だった、身分に関係なく才能が活かされる世の中を、私なりに手伝わせていただきます」


風が吹いて、どこからか桜の花びらが舞ってきた。まるで信長の返事のようだった。


## 第十一章 新しい恋の芽生え


秀吉の陣営で働く中で、千鶴は石田三成と知り合った。若く聡明な三成は、千鶴の政策提案に深い理解を示した。


「千鶴殿の考えは、いつも新鮮で的確ですな」


「ありがとうございます、三成様」


最初は仕事上の関係だったが、次第に三成は千鶴に好意を抱くようになった。


「千鶴殿、もしよろしければ、私の正室になっていただけませんか」


三成の申し出に、千鶴は戸惑った。


「三成様のお気持ちは嬉しいのですが…」


「信長公のことが、まだお心にあるのですね」


千鶴は頷いた。


「申し訳ございません」


「いえ、構いません。私は待ちます」


三成の優しさに、千鶴の心は少しずつ癒されていった。


## 第十二章 時の流れと心の変化


天正十八年(1590年)、千鶴は三成と結婚した。信長への想いは消えることはなかったが、三成の誠実さと愛情に心を開いたのだ。


「千鶴、幸せにしてみせます」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


千鶴は三成と共に、理想的な政治を実現するために働いた。現代から来た知識と、戦国時代で学んだ経験を活かして、多くの政策を成功させた。


ある日、千鶴は妊娠していることが分かった。


「三成様、私たちの子供です」


三成は涙を流して喜んだ。


「千鶴の子を授かるなんて…これ以上の幸せはありません」


千鶴も心から幸せを感じた。信長への想いは心の奥底にしまって、三成と新しい人生を歩むことを決めたのだ。


## 第十三章 関ヶ原の悲劇


しかし、慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こった。千鶴は歴史を知っているため、三成が敗北することを予感していた。


「三成様、お気をつけて」


「千鶴、もし私に何かあったら…」


「そんなことおっしゃらないで」


しかし、千鶴の不安は的中した。三成は西軍の中心人物として戦ったが、小早川秀秋の裏切りなどにより敗北した。


「三成様が捕らえられました」


知らせを聞いた千鶴は、急いで京都に向かった。しかし、すでに三成は処刑されていた。


「三成様…」


千鶴は初めて、声を上げて泣いた。信長のときは覚悟していたが、三成のときは違った。愛する夫を失う悲しみが、胸を引き裂いた。


## 第十四章 一人で生きる道


三成の死後、千鶴は子供と共に隠遁生活を送った。政治の世界から身を引き、子育てと農業に専念した。


「お母様、お父様はどのような方だったのですか?」


成長した息子が尋ねた。


「とても優しく、正義感の強い方でした。そして、より良い世の中を作りたいと願っていました」


「僕も、お父様のような人になりたいです」


千鶴は息子を抱きしめた。三成の血を引く息子が、きっと素晴らしい人物に成長するだろう。


年月が流れ、千鶴は村の人々から慕われる存在になった。現代の知識を活かして、農業の改良や医療の普及に貢献した。


「千鶴様のおかげで、この村はとても豊かになりました」


村人たちの感謝の言葉に、千鶴は自分の人生に意味があったことを実感した。


## 第十五章 人生の終盤に


慶長二十年(1615年)、千鶴は60歳になっていた。息子は立派な武士に成長し、孫にも恵まれた。


春の日、千鶴は一人で桜の木の下に座っていた。


「信長様、三成様、私は幸せな人生を送りました」


桜の花びらが風に舞って、千鶴の頬に触れた。


「現代から来た私でしたが、この時代で多くのことを学び、愛し、愛されました」


千鶴は微笑んだ。


「もし生まれ変わることがあったら、また皆様にお会いしたいです」


## エピローグ 桜散りて、想い残りて


千鶴は74歳で静かに息を引き取った。臨終の際、信長と三成の姿が見えたような気がした。


「よく頑張ったな、千鶴」


信長が優しく微笑んでいる。


「ありがとう、千鶴。君と結婚できて幸せだった」


三成も温かい笑顔を向けてくれる。


「お二人とも、愛してくださってありがとうございました」


千鶴の人生は、決して思い通りにはならなかった。しかし、それでも価値のある、意味のある人生だった。


現代から戦国時代に転生した一人の女性が、歴史の荒波の中で懸命に生き、多くの人々の心に影響を与えた。恋愛が全て成就したわけではないが、愛することの尊さ、生きることの意味を見つけることができた。


千鶴の墓石には、息子が刻んだ言葉があった。


「桜散りて、想い残りて。愛に生き、人に尽くし、この世に美しき足跡を残せり」


春になると、墓石の近くに植えられた桜の木が美しい花を咲かせる。その花びらが風に舞うとき、千鶴の魂も一緒に舞っているのかもしれない。


現代でも戦国時代でも、人は愛し、愛され、誰かのために生きる。それが人生の本当の意味なのかもしれない。千鶴の物語は、時代を超えて、愛することの尊さを語り継いでいく。


---


**完**

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