第一章 二〇二五年

おわりのあと ①

 自棄になっていたのは否めない。

 全て終わってしまえばいいとさえ思っていた。

 だけど今、僕はひたすらに後悔をしている。呼吸をしてもいいのかさえ分からない緊迫感。許可をとるという行為自体が不遜にあたる気がしてならない。何かすれば最後、僕もまた死者たちの仲間入りを果たすだろう。

 近づいてくる。近づいてくる。近づいてくる。

 世界が歪む。圧縮された人生が脳裏をよぎる。何度目かも分からない走馬灯。そう長くない人生経験をどれだけ振り返ろうと、目前の危険への対処法など出てくるわけがない。

 これを前にすれば肌で分かる。

 もう、どうしようもないのだ。

 やめておけばよかった。少し前の自分を心底恨む。

 これなら素直に殺されておいた方が幾らかましだった。

 わざと忌地に足を踏み入れるなんて、しなければ良かった。


            ※


 安アパートの自室のドアノブを握った時、中からくぐもった声が聞こえた。

「ちがうんです、ちがっ、おれ、本当になにもしっ」

 最後まで言い終わる前に、鈍い音と小さな悲鳴が何度も響く。

「うっ、ひがくて、ひがくて、おれ、無関係で、何もひらないんれぶ――」

 べちゃべちゃ、と液状のものが滴り落ちるのと同時に、小さく固いものがからからと腐りかけのフローリングを転がるような音もした。

 たぶん、強く殴られすぎて歯が折れたのだ。

 歯はまずい。元の状態に戻してあげたくても、治療費が掛かりすぎる。そうでなくとも、そのレベルの暴行を躊躇なくする奴らが自室にいることに頭がくらくらする。同時に、かつて彼らにやられたひしゃげた右手の小指、その骨折跡に鈍痛が蘇る。

 あーあ、と思う。

 ――人生終了。僕も死んだな。

 ひりつくような絶望で、頭が真っ白になる。

 部屋の中にいる人物は、僕の人生唯一の友人だった。

 運も悪くて間も悪い。本当に、彼は偶然居合わせただけなのだ。

 東京に行くから久々に遊ぼうぜ――高校を卒業してもう三年以上立つのに気軽にそう連絡してくれる、気っ風の良い男だ。唯一の友人の誘いを断る理由もなく、なんだったらこうして僕にしてはかなり奮発して彼が好きな日本酒を買ってきたところだった。

 手汗で滑ってずり落としかけたエコバックを、僕は慌てて持ち直す。

 部屋の中の彼は、今まで一度も聞いたことのない震えた声で、

「おねがいでずっ……なんでもっじまず……ゆっゆるじでぐだざい……」

 何も悪いことをしていないのに、そう泣きじゃくっていた。

 怖いのだろう。それはそうだ。僕も同じだ。

 圧倒的な暴力ほど怖いものはない。

 僕のトラブルに巻き込まれて苦しむ彼の声。

 扉を一枚隔てる僕は、ひたすら怯えて固まり続ける。

 そして僕にはこの場を打破する武力も勇気もなければ、うまく丸く納める知力もないし機転も効かない。何だったら慰謝料として出せるお金もなくて、借金出来る親族なんかも軒並み死んでいる。これで彼が同性愛者でもあれば、僕は顔だけはいいから身体を使ってお詫びするみたいなことは出来るのだろうけど、残念ながら彼には可愛い彼女がいる。

 つまるところ、詫びようがない。

 僕の人生の唯一の、友人なのに。

 僕は彼との関係性が破綻してしまうことに心の底から絶望しながら、足音を殺して今乗ってきたばかりの自転車に跨って少しの距離をとる。震える手をどうにか抑えて、携帯端末で警察へと通報しようとした時だった。

 がちゃり、と部屋の扉が開く。僕は反射的に目を遣る。

 中から現れたのは、体格の良い白いスーツの男性だった。

「あれえ? なんだよお」

 咥え煙草の彼のその口調は柔らかく、人好きのする笑顔を浮かべて、しかしその目だけは蛇のようにぎらついている。僕は全身から汗を噴き出す感覚を覚える。

 白スーツの彼は、まあちょっと待ちなよ、と手をひらひらとさせて、

「おーい、アホ共。ゲンちゃんだっけ? 表にいるぞぉ」

 そう部屋の中に声を掛けた。その瞬間、入れ墨だらけの男と筋骨隆々の男が飛び出してくることを察知した僕は、必死にペダルを漕ぎ出した。


 どうしてこうなったのだろう。


 だって、普通に大手求人サイトで募集されていたのに募集しただけなのだ。荷物運搬スタッフ、軽作業、即日支払い。当日指示されるままに行ってみた所には、酷く取り乱した中年女性がいて、差し出してきた封筒には結構な量の札束が入っていた。

「こ、こ、こ、これで、本当に、弟は助かるんですよね――?」

 事情は分からないけど、酷く震えた声だった。

 匂い立つような、強烈な違法性を感じた。

 可哀想に思った僕はこう進言した。

「あ、これたぶん、なんかのサギっぽいっすよ。一回そのお金持って帰って、信頼できるご家族とか警察に相談したほうがいいんじゃないですかね」

 近場の交番に彼女を送り届けて、そのまま帰路についた。闇バイト、というやつだったのだ。だから帰り道で僕は怖いお兄さんたちに囲まれて、手酷く痛めつけられ、命からがら逃げ出したものの――こうして追われる身となってしまった。

 正しいことをした、つもりだったのだけど。

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