【最終章.『9』】

【第二十五話.『1』(或いは全てのはじまり)】

 晶子は自室のあるアパートに戻る。四人もの生徒と、一人の教員の自殺を受けて、学校は休校の延長を決定。再開の目途すら立っていない。


(疲れた……とても)


 ふうう。

 晶子は深く、とても深く息を吐いた。

 何気なく──本当に何気なく、いつもの習慣で──ポストを覗く。

 と、白い封筒が入っているのを発見する。


『久我晶子くん江』


 晶子はハッとする。この古臭い日本語の使い方、癖のある角ばった字。

 裏面を見る。


『椿れい』


 差出人には、昨日消えた親友の名前が、間違いなくそこに書いてあった。

 消印は、昨日の日付が押印してある。……電話の後、出したのだろうか。


 ともかく晶子は、自宅に駆け込むと、テーブルに着いて急いで封筒を開封した。



 久我晶子くん。

 きみがこの手紙を読んでいるということは、私に何かが起きたあとというわけだね。

 独りでさぞ心細い思いをしていることだろうと思う。

 まことに申し訳ない。

 だが、きみは犯人に至る、決定的な証拠を、既に手にしている。

 あとはそれに気づくかどうか、さ。

 きみ自身の手で、なんとしても犯人を捕まえるんだ。

 それが、愛理ちゃんの死を自ら克服するためにも、必要なことだ。

 だからここでは、『1番目』について言及するのは、あえて避けることにした。

 きみの健闘を祈っている。

 大丈夫、きみならできるさ。


 そうそう。

 事務所にかるびが一匹で腹を空かせていると思う。

 この手紙を見たのなら、申し訳ないが事務所まで行ってエサをあげてくれないだろうか。

 エサは事務所の台所の下の棚に缶詰がおいてある。

 ひとつ、開けてあげてやってくれ。

 いいかい、『台所』だよ。

 必ずそこに行くんだ。

 いいね?


 では、よろしく頼む。


 椿れい。



 大事な内容なんだか、どうでもいい内容なんだか、よくわからない手紙に晶子は困惑した。まあ、彼女らしいと言えば彼女らしい。

 けれど、気になった。


『台所』に二重線が、わざわざ赤ペンで引かれていることに。


 気が付くと、晶子は手紙をハンドバッグに入れ、家を飛び出していた。



 八丁畷駅まで歩いて、普通浦賀行きに乗る。

 しばらく乗って十駅行くと横浜だ。京急線のホームから、地下のみなとみらい線の各停、元町・中華街駅行きに乗る。

 終点まで乗ったら、地上に出て、中華街の中にひっそりと建つ椿れいの事務所を目指した。


 普段なら、旧友に会える気持ちでわくわくしただろう。

 しかし今は違う。


 家を出てすぐから、事務所に入るその瞬間まで。

 ──凍て刺すような殺意を、ずっとその背中に受けているのを、感じていたからだ。



 埃を分厚く被った、今はもう動くのかすら怪しい、古くて赤いミニが停まっているビルに着いた。ここが、晶子の親友『だった』、椿れいの住んでいるビルだ。『故障中』と書かれたエレベーターの前に立つと、上の方から猫の鳴き声が聞こえてきた。


「うにゃにゃにゃにゃ……」


 瞬く間に漆黒の毛皮を身に纏った『かるび』が、階段に積んである古本の間を軽やかに降りてきた。


「ごろにゃあ!」


 一階に着くなり、ひときわ大きくてかわいい鳴き声で客人をもてなした。


「かるび、かわいいね、かるび……よしよし……」


 晶子は、まるで一年ぶりに会ったかのように、優しくわしゃわしゃとその艶のある毛を撫でた。


「かるび……お前のご主人様は一体どこに行ってしまったの?」

「うにゃん!」


 ──それなら知ってるよ。


 まるでそうとでも言うかのように、階段を三段上ると、振り返ってにゃあともう一度鳴いた。


「お前、れいがどこにいるか知っているの?」

「にゃん!」


 ぴょんぴょんと古本の山を跨いで進む黒猫について行くと、三階の事務所に着いた。

 え? 本当に事務所にれいがいるの?

 その期待を胸に階段を上るが、すぐに晶子は落胆した。

 事務所は相変わらずひどい散らかりようで、古本の臭いなのかカビの臭いなのかわからなくなるほどだった。とても人の気配があるようには思えなかった。


 と、台所の──これまた埃まみれの──シンクの上で、かるびが鳴いた。


「そっか、お腹減ったよね」


 晶子はふふと笑うと、よいしょとしゃがんで、シンク下の棚を開けると。


「あった、あった。ほら、ごはんだよ」


 ところが、どんなに辺りを見渡しても、猫用の──というか人間用のも含めて、お皿が一枚もない。仕方ないので、開けた猫缶をそのままあげることにした。


「ほら、食べな。……おいしいよ」


 が、すんすんと匂いこそ嗅いだものの、食べようとしない。


「あれ、お腹減ってない? ほれ、ほれ」


 缶詰を手に口元に近づけても、いやいやとそっぽを向くだけ。しまいにはシンクから降りてしまった。


「おっかしーなー……。って、あ、だめだめ!」


 かるびは、床に置いた晶子のハンドバッグを漁ると、夢で見つけた森川詩絵涙から愛理宛ての手紙を咥えて、逃げ出した。


「あっ、こら! かるび! それはだめっ!」


 黒猫は追いかけられると、『台所の』小さな窓の前で止まった。

 晶子はハッとする。


 ──いいかい、『台所』だよ。

 必ずそこに行くんだ。

 いいね?


「お前、なにか私に伝えたいの?」

「にゃ」


 そう一声鳴くと、手紙を窓際に置いた。


 ──だが、きみは犯人に至る、決定的な証拠を、既に手にしている。

 あとはそれに気づくかどうか、さ。


(この手紙に、犯人のヒントが隠されているっていうの?)


 窓には昼下がりの光が差し込んで、室内の埃に反射してきらきらと輝いている。

 晶子は、手紙を封筒から取り出した。



 ──愛理へ。

 今日はびっくりだったよね。まさかゆまちゃんがあんなことになるなんて。


 ……。


ああ、愛しい愛理にあんなにかわいい仔猫が来るなんて! わたし、幸せだわ。ずっとずっと幸せにしてあげてね、約束だよ。

 ……。



 手紙はあれから何度も目を通した。シリアルキラーに繋がるものはない。ここにはない。


「にゃあ」


 しかし、手紙を仕舞おうとすると、かるびが鳴く。そして、晶子の手から手紙を奪うと、また窓際に置くのだ。


(んー?)


 晶子が不思議がっていると、いっしゅん、手紙の上に何かが『見えた』。


(これって……まさか……!)


 手紙を窓に付け透かして見る。そして初めて、『手紙の紙に、なにか文字が転写されている』という事実に気が付いた。


 晶子はハンドバッグまで走り、化粧ポーチからアイブロウペンシルを取り出した。


「愛理、ごめん!」


 小さくそう叫ぶと、その手紙をアイブロウで塗りつぶしてみた。

 すると、とある文字が浮かびあがった。


「……そう」


 ──晶子は、遂にシリアルキラーが誰かの特定に、成功した。


「あなただったの」


 彼女はそこに書かれた字を、じいっと見つめていた。



 椿れいの事務所を出てすぐ、また強烈な殺意のこもった視線を背中に受けた。

 晶子は構わず、元町・中華街駅を目指した。

 どこにいても、刺し殺されそうなほどの狂気を帯びた視線。


(まってなさい。今ではないわ。もう少し、もう少しよ)


 横浜で京急線に乗り換えて、またしばらく耐えた。

 それから八丁畷駅に降り立って、二番線ホームのベンチに腰かけた。

 そして、自分の横のスペースを、とんとんと二回叩いた。



「少しだけ、お話しましょ。森川詩絵涙さん……いえ、シリアルキラーさん」



 晶子の手には黒く塗りつぶされた手紙が握られている。


『私は悪い母親でした。詩絵涙ごめんなさい。あの子のため天国へ行きます。1』


『1』の文字が転写された手紙を、晶子は握りしめている。

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