【第六章.『7』『8』】

【第二十一話.絶望(或いは奇妙な事象)】

 久我晶子は薄暗い部屋の中──LEDの照明は確かについている。暗いのは彼女の心の中なのかもしれない──、泣いている。

 スーツのまま着替えもせず、膝を抱えて、小さい子供のように。


(れい、どうして。あなたまで居なくなってしまったら。私、私は──……)


 深い深い絶望と孤独の中、彼女は零れ落ちる涙で膝を濡らすことしか出来はしなかった。


(れい、どこへ行ってしまったの……れい)


 ここで晶子が涙する理由は、椿れいが死んでしまったからではない。


『白昼の衝撃 日朝新聞デジタル』


 晶子の握り絞めるスマホには、ネットニュースの記事。


『本日十五時二分、神奈川県川崎市川崎区に位置する京急・八丁畷駅にて人身事故があった』


 書かれているのは、言葉にすることが難しい、奇妙な、とても奇妙な出来事についてである。


『上り、快特泉岳寺行き電車の通過の直前に女性が飛び込んだのを、複数の乗客及び駅員に目撃された。しかし消防職員及び地元警察官が捜索に当たったものの、数時間経っても被害者の発見には至らなかった。神奈川県警は、『衝突するも軽症だった為、立ち去った』との見解を発表。捜査の継続も併せて公表した。なお、乗客の見間違い等の可能性は、車両前面に衝突痕があるため、否定した』



 五時間十八分前。

 ミステリー作家、椿れいは。

 八丁畷駅二番ホームにて、快特泉岳寺行きの京急本線上り電車に跳ねられた。


 ぷぁーん、という大きな警笛がしてその直後。

 どん、という衝突音。運転席のガラスが、蜘蛛の巣のように割れる破裂音。時速百二十キロからフルブレーキングをかけ、停車する電車の金属音。

 赤い車両から立ち上る加熱したブレーキの、金属が焼けるような嫌なにおいまで、晶子は克明に記憶している。


 すぐさま非常を知らせるベルが鳴動する。

 次いで、車掌からのアナウンスが入る。


「ご乗車のお客様にお知らせいたします。ただいま当列車におきまして、人身事故が発生いたしました。繰り返しお知らせいたします。ただいま──」


 久我晶子は、LINEの画面を開いたままのスマートフォンを片手に、人目をはばからず座り込んでいる。

 すぐに止まれなかった電車は、十両編成の最後の車両だけをホームに残して、百メートル以上先で、踏切をふさいで停止している。

 かんかんという踏切の音が、鳴りやむことなく継続している。


「れい……?」


 晶子は何が起きたのか、状況を正しく理解できていない。

 確か、待ち合わせをしていたのだ。確か、何かがわかったとかで、十五時にこの駅の改札前で。


(なんだっけ。何がわかったって言ってたっけ)



『おお、そうそう。警察内部のツテから、奴に肉薄出来うる情報の獲得に成功したよ』

「! 教えて、どんな情報なの?」

『1が誰か、だよ』



 そうだ、わかったと言っていた。『1』番目の被害者がだれか。

 そうだ、さっきLINEでなんと言っていただろう。


 改めて、スマホを見る。


『私は悪い人間でした。ごめんなさい。あの子のため天国へ行きます。6』


 え……?

『6』ってなに?

 高瀬愛理。細野しおり。山村幸太郎。佐々木冬馬。今まで四人も死んでしまった。いちばんの親友だった椿れいも、死んでしまったっていうの? シリアルキラーの手にかかって?

 え?


 ……え?


 目の前では、駅員数名がすでに救護活動にあたっている。その傍らで。


「いやぁ──っ!」


 晶子は絶叫した。

 娘を。教え子を。仕事仲間を。そして残されたたったひとりの友人を喪って。

 この世界でたった独りになってしまったと認識して。


 肺腑を抉るような苦しみに、口を開いて出た『音』が、それだったのだ。


「大丈夫ですか」


 駅員のひとりが晶子のそばに駆け寄る。

 それでも晶子は、涙をまき散らしながら慟哭することしか出来なかった。



 ところが、である。奇妙なことはその後に起こる。


「見つかったか」

「いえ、それがまだ」


 到着した救急隊員が、何か言葉を交わしている。


「加藤、加藤いるか」

「はい、ただいま! ……申し訳ございません、失礼させていただきます」


 ホームに座り込み泣きじゃくる晶子の傍にいた、加藤と呼ばれた駅員が呼ばれて線路に降り、保線員と、それから到着した警察と消防と合流し、検証に加わる。


「確かに見たのか」


 どうやら、跳ねられた椿れいの救出に時間がかかっているらしい。

 涙していた晶子も、二十分ほどして事態に進展がないことに気が付く。

 消防隊員が、サーマルカメラで車両の下を丹念に捜索している。警察官もまた、駅にいた乗客の男女──おそらくはサラリーマンや近隣に住む利用者だろう──に目撃証言を収集している。


 それらは、三十分経っても、一時間経っても終わらない。

 八丁畷駅は、後から後から来る事故を知らない乗客たちであふれてきたため、駅長の判断により改札をいったん閉じた。


「あの」


 呆然としていた晶子も、非常事態に在って、その中でも異常な状況であることにようやく気が付く。


「れいは……あの、私の友人が事故に遭ったんですけど、どうなっているんですか」

「はい、ただいま事故に遭われた方の救助に当たっているところですが……少々お待ちください」


 尋ねられた警察官は、傍を通った救急隊員を呼び止める。


「あの、現況はどうなってます?」

「要救助者の確認が取れていません。……それでは」


 救助隊員の報告を聞いた若い警察官は、晶子の方を向いて、こう言った。


「被害者の方が、見つからないようなんです。事故の痕跡はあるみたいなんですが」


 何とも言えない苦い顔で、そう、告げた。



 結局、椿れいは何時間経っても、電車の下からも線路の周囲からも発見されなかった。

 電車に接触の痕跡が認められたため、警察は捜査こそ継続するものの、『衝突するも軽症だった為、立ち去った』という結論に至ったようである。京急線も、安全確認を行った上、確認が取れたとして三時間後に運転を再開した。


 そう、椿れいなんて女性は初めからこの世にいなかったのだ、とでも言うかのように、彼女は忽然と姿を消してしまった。


 それでも、椿れいという晶子の親友が失われてしまったことに、変わりはない。

 だから、泣いているのだ。


 誰もいない、散らかり放題の家で。

 スーツのまま膝を抱えて。


「愛理、教えて。『1番目』は、だれ? ……だれなの……」


 答えてくれる者のない問いかけは、温度のない部屋の中に吸い込まれて消えた。

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