【第八話.繰り返される事象(或いは止まない惨劇)】

 ラブホテルを出ると、そこは駅前の『八丁畷商栄会』と書かれた看板を掲げる繁華街だった。土曜日の朝、人もまばらだ。

 夕べは泥酔してしまっていてまともに記憶がなかったが、地元の八丁畷周辺だとわかり少しホッとする。晶子はもう一度LINE通話をかけるがまたしても繋がらないので、そのまま黒のパンプスを駅の方へ向けることにした。

 目指すは京急線で三つ先の駅、花月総持寺かげつそうじじ駅だ。あいつの──山村幸太郎の──住んでいるアパートの最寄り駅だ。一度家に呼ばれたことがある。断ったが、しつこく誘うので、仕方なく足を運んだから覚えている。今頃、大いびきをかいて寝ているに違いない。


 そう。そのはずなのだ。


 大の大人だ、お酒を覚えたての子供じゃない。ちゃんと家に帰って、ちゃんと寝ている。それ以外に考えられない。考えたくない。

 けれど。


『これでよっつ……これでよっつ……』


 あの時聞こえたあの声が、頭から離れない。


 何がよっつなのか。

 愛理の『2』と、細野しおりの『3』と関係があるのか。

『高瀬愛理の死を思い出せ』……あの文字は何だったのか。

 山村幸太郎の言う『校長先生の一件』とは何だったのか。


 山村幸太郎は、何を知っているのか。細野しおりは、そして愛理は、何かを知っていたのだろうか。

 考えれば考えるほどにわからない。とにかく今は、家で爆睡しているはずの山村幸太郎に話を聞こう。そうすれば、少しはことの真相に近づけるような気が──。


「先生」

「うわあっ」


 突然真後ろから──それも本当に息がかかるほどの近さで──声をかけられて、晶子は跳ね飛びそうになった。


「森川さん」


 森川詩絵涙が、制服姿で立っている。

 腰まである豊かで長い黒髪。色素の薄い茶色の瞳。左手の甲にある蝶の形のアザ。

 痩せすぎている点を除けば、完璧な調律を保った美少女である。女の晶子から見てもドキリとするくらいなのだから、さぞ男子にもモテるだろうと踏んでいたが、異性にはまるで興味を示しているところを見たことがない。

 かといって、クラスで浮いている訳でもない。いつも誰かの『傍で笑っている』。それも、一緒にいる相手には見えていないかのように。

 ──それはまるで。


 そこにいたことを誰にも気付かせない、幽霊のようだった。


 そんな森川詩絵涙が、立っている。振り向いた晶子の一メートル先で。

 不思議な子だ。確かに今そこにいるのに、存在感が無さすぎて、脳が『そこにいる』ことを認識してくれない。


「先生」


 彼女は更に近づいて、すんすんと、晶子の脇のそばで鼻を鳴らした。胸の内に疚しさを抱える晶子は身を引くが、森川詩絵涙は追撃の手を休めない。


「におい。男の人の」


 そういうと、担任の教師の首元をつんとつついた。


「先生、跡がついてますよ」


 ばっ。

 何を言われているのか瞬時に理解した晶子は、『その跡』を手で隠すと、さらに一歩下がる。


「先生、彼氏が出来たんですか? それとも」

「なんでもありません。……それより、森川さんはどうしてここに」

「どうしてって。じゃあ。先生はどうしてあんなところに居たんですか?」


 そういうと、少し離れたラブホテルの看板を指さした。


「それとも、わたしと同じなの?」

「森川さんと? どういう意味かしら?」

「ふふ。じゃあもうひとつ。先生は、どこに行こうとしていたんですか?」

「私? ……私は……」


 しまった。いつの間にか退路を断たれてしまっている。

 彼女はいつも──中学校で愛理と一緒のころから──そうだった。感受性が同世代の子に比べてずば抜けて高いが、それ以上に勘が『異常に』鋭い。猫を思わせるその瞳に見つめられると、本当のことしか言えなくなる。


 この子に嘘は通じない。


 娘と共に長く付き合っているが、今日改めて再認識することになるとは。


「……山村先生の所です。ちょっと、気になることがあって」

「わたしもついていって構いませんか」

「森川さんが?」


 それは避けたかった。晶子は教育者だ。夕べのことは一夜の過ちだったとしても──もう手遅れかもしれないがそれでも──、それを悟られたくなかった。


「そっかあ、だめかあ」


 くるり。森川詩絵涙は踵を返して晶子に背を向け、そしてこう続けた。


「明日のPTAの議題ー。久我先生のことで持ちきりになっちゃうかもしれませんね? それかあ……」


 ぴたり。足を止めた。


「……」


 何と言ったか、聞き取れはしなかったけれど、晶子は折れるしかなかった。


「……はあ。わかった。ついてきなさい」



 八丁畷駅。一番線ホームに立つ、教師と生徒。

 教師の娘は、二年前にこのホームから線路に転落し、快特三崎口行の列車に跳ねられ亡くなった。

 自殺、ということになっている。

 ごおっ。

 轟音を立てて通過列車が百二十キロで通過した。


「大丈夫?」


 晶子は森川詩絵涙を案じる。顔色が悪い。

 先程までの余裕はどこに行ったのかと言いたくもなるが、それはこの子の年を考えれば無理もない。

 いちばん多感な時期に親友を飛び込み自殺で亡くしたのだ。その傷も癒えない中、こうして同じ場所に立って、そして電車を待っている。

 親の晶子でも、きつい。出来れば、来たくない。

 未だ多感な過程にある森川詩絵涙にとって、それは堪らない苦痛だろう。


「大丈夫です」


 森川詩絵涙はこくりと頷いた。


「わたしも、どうして愛理が死んでしまったのか、知りたいですから」


 雲のように掴みどころのない姿。

 同級生の死に過呼吸を起こす姿。

 亡き親友にこうして向き合う姿。


 そのどれもが、この子の本当の姿なんだろうと、晶子は思うのだった。



 普通列車を待つこと十分。

 ホームに滑り込んだ浦賀行き短い四両編成に乗って、三つ目。

 花月総持寺駅に着く。


 山村幸太郎の家は、たしか駅から五分ほど離れた住宅街の中にある、二階建てのアパートの一◯二号室だ。

 前に行った時にも思ったが、晶子のアパート以上に貧相で古臭かった。


「ここ、山村先生の家なの?」


 森川詩絵涙が驚くのも無理もない、と晶子は苦笑いした。


 きんこーん。


 シンプルで簡素な呼び鈴は、確かに部屋の中で響いている感覚がある。しかし、山村幸太郎が出てくる気配はない。

 もう一度押す。

 と、その時。


「久我先生、これ」


 森川詩絵涙が戸を指さす。建付けの悪いベージュの扉は、極わずかに開いている。鍵をかけてはいないようだ。


「山村先生、居るんじゃないですか」


 そういって彼女は、軽い力でも開くそれをひねってドアを開けた。


 晶子は考えていた。

 山村幸太郎は、適当な人間だ。鍵を閉め忘れていても不思議ではない。

 けれど。

 扉を閉め忘れるなんてことが、あるだろうか。

 前に訪れた時に帰る際、建付けが悪いとぶつぶつ言いながら閉めていた。

 今、この扉の状況は、何かおかしい。

 まるで、『建付けの悪さを知らない何者かがこの部屋を出ていくときに、閉まっていないことに気がついていなかった』かのような──。


 だとすると。


 森川さん。だめ。

 そう言おうとするのとほとんど同時だった。


「いやぁ──っ!」



 山村幸太郎は、揺れていた。

 首にロープを巻いて、天井から吊り下げられて。扇風機が放つ風に揺られて。


「いやっ、いやぁっ!」


 森川詩絵涙が泣き叫んで首を振っている。

 晶子は、山村幸太郎の足元に、紙きれを見つけた。


 まさか。


『私は悪い教師でした。一年C組の皆さんごめんなさい。あの子のため天国へ行きます。4』


 4。

 晶子は、今になってようやく気がつく。惨劇はまだ、始まってから間もないのだと。

 胸元に縋りつき泣きじゃくる森川詩絵涙を胸に抱きながら、思わず言葉が出た。


「あと何人……あと何人死ぬの?」


 物言わぬ山村幸太郎は、静かに揺れるだけ。

 答えてくれる者はない。


 誰一人として。

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