わたしの9つの心臓

杏樹まじゅ

【第一章.『3』】

【第一話.はじまり(或いは何かの続き)】

 ──数カ月前、夕方。小さな命が奪われた。奪ったのは、残酷な子供たち。見て見ぬふりをしたのは、ひとりの教師。それは、地方紙にも載らない、取るに足らない事件だった。

 それは、あるひとりの心に、耐え難い火をつけるには、十分だった──。



 久我晶子は川崎市に位置する、神奈川県立K高校の教師である。四十一歳、十一年前に夫と死別してからは独身。肩よりも長い髪は、かなり下の方で結んで、おくれ毛のある長いポニーテールにしている。その身に纏うはグレーのスーツ。幸薄そう、とよく生徒からからかわれることもある、地味なルックスだ。一年E組担任で、担当教科は英語・グラマーである。

 現在時刻は午後五時五十五分。夏の黄昏の陽が教室内に差し込み、冷房を切った教室では肌にじんわりと汗を浮かばせる。

 が、汗をかいているのは暑いからではない。その手に持つは差出人不明の紙。書かれたのは、一年E組に来てください、と書かれた文字のみ。


(何? どうして? いったい何が起きているの?)


 心臓も早鐘のように鳴り響いている。口が乾いて言葉が出ない。眩暈に似た感覚は、身体をまっすぐに保たせてくれはしない。

 なぜ、ここに『あの子』の名前があるのか。晶子は理解ができない。

 ありえない。だってあの時、あれは事件性のないものだったと、警察からも教育委員会からも言われたではないか。それから二年、ようやく前を向いて生きていこうと、やっとの思いで決めたではないか。名字は、娘が亡くなり戸籍を抜いた時に変えた。一年E組に、その名を知っている生徒は居ないはず。

 それなのになぜ。どうして。

『そこ』に晶子の娘の名前が書いてあるのだろう。



『高瀬愛理の死を思い出せ』



「……だれ? こんなひどいいたずらをしたのは」


 晶子は空っぽの教室に呼びかけた。否、誰かが見ているに違いない。これはいたずらだ。どうせこの後ドッキリだなんだと、廊下からがやがや入ってくるんでしょう。こんな質の悪いいたずらをするのは、青木君か、山崎君か、園屋さんか。


「出てきなさい。見ているのはわかっていますよ。高校一年生にもなってこんな──」


 こんないたずらは許しませんよ。そう言いかけた、まさにその時だった。


 ひゅんっ。


(え)


 いま。

 視界の端の。

 教室の窓の向こうで。

 何かが落ちなかっただろうか──。


 どたんっ。


 時間が止まる。晶子の心が凍り付く。確かに、視界に移ったのは制服だった。白の、胸元に校章の刺繡のあるポロシャツ。紺と青のタータンチェックのスカート。毎日見ているから間違えようがない。このK高校の女子の夏服だ。それが窓の外を『落ちて』いったのだ。首を窓の方に向けることすらやっとだ。見間違いであってほしい、その祈りと淡い期待は、直後聞こえてきた運動部顧問の先生の声でかき消された。


「誰か落ちたぞー!」


 聞き終わる前に、久我晶子は全力で走り出していた。


(誰、誰が落ちたのっ)


 頭に赤いヘアピンが見えた。見覚えがある。授業中に話していた。それどこで買ったの。えっとこれはね。こら、授業中ですよ。そのやり取りがあったのはつい三時間前だ。

 そう、あれは出席番号三十六番の──。

 晶子は室内用の靴のまま一番近い来賓用の出入り口から飛び出していた。

 嘘よ、嘘だわ、嘘であってほしい。だって、二年しか経っていないのだ。愛理が死んでから、二年しか。もう子供が死ぬところなんて見たくないと、心に誓っていたはずなのに。

 はあっ、はあっ。

『そこ』までのたった三十メートルが、永遠のように長く感じた。いや、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。


 ともかく、晶子がたどり着いたそこには、ひとりの女子生徒が倒れていた。すでに二名の教師が救命にあたっている。腰までの長い髪には、赤いヘアピン。整ったその顔立ちは、もう溢れる血に濡れてしまっている。けれども、晶子がその顔を見間違えることはない。

 一年E組、出席番号三十六番。野球部マネージャーの。


「細野さん」


 目の前が真っ暗になるのを感じながら、その名前を絞り出した。


 細野しおり。


 多少気が強い傾向はあったけれど、明るく笑うその姿は、晶子にとっても──或いは一部の男子たちの間でも──好印象な子だった。勉強をよく頑張る子で、英語の文法を聞きに職員室に何度も質問に来ていた。家柄も良いようで、時折お父様の運転する白のドイツ車が迎えに来ていた。


 血だまりがコンクリートに広がっていく。額は割れてしまっていて、医学には遠い晶子でも、もう助からないことは理解できてしまった。


「久我先生、救急車、救急車!」


 そう呼ばれて、初めて晶子はハッとする。いけない、私は教師だ。何をしていたんだろう。

 スマホを取り出して、百十九番をタップする。


『はい、こちら消防です。火事ですか救急ですか?』

「救急です。あの、こちら県立K高校で、生徒が一人転落したようで……はい、はい」


 晶子は質問に迅速に答えていく。そして、最後にオペレーターは心臓マッサージ中の教師へサポートするため、スマホをマイクにして近くへ置くように指示し、晶子もまたそのように従った。

 よかった、あと数分で救急車が到着するだろう。


(あら?)


 と、その時。

 ふと、晶子の視線がある一点に止まる。


(何かしら)


 よく見ると、右手に何か持っている……ように見えた。

 すいません、ちょっと。そう叫ぶと、ポロシャツをたくし上げ心臓マッサージをする教師の脇から手を伸ばし、握りしめられた彼女の指をほどき、『それ』を手に取った。

『それ』は、丸められた紙切れだった。

 血に濡れてしまっているものの、何かが書いてあるのを理解した晶子は、急いでその紙切れを伸ばした。


 一瞬、時間が止まった。


 なんで。

 どうして。


 自問するも、無論答えは返ってこない。けれども、『その文字』は、確かな存在感を持って、その紙に記されていた。


『私は悪い子でした。お母さんお父さんごめんなさい。あの子のため天国へ行きます。3』


 3。

 やや癖のある字で書かれたその番号は、確かにそこに書いてあり、それが決して間違いではないことを示していた。

 そして、晶子の地獄は終わっていないことを──或いは始まったばかりだということを──、何より雄弁に語っていた。



『何か、思い当たることはありませんか』

『お嬢さんの死にかかわっているかもしれません』

『思い出した際には、神奈川県警、刑事課刑事第一係まで』


 そうよ、そうだわ。

 あの時も、確かに書いてあった──。


 愛理の遺書は、二人が住む安アパートの愛理の部屋の、学習机の目立つ位置に置いてあった。素直な子だったから、母親に何かを隠すことはこれまでしてこなかった。だから遺書がそこに置いてあっても、別段不思議ではなかった。あの子らしいな、そう思ったほどだ。だからこそ、不可解だった。


 その遺書に『2』と書いてあった、そのことが。



 遠くから、救急車のサイレンが聞こえ始める。


「細野、しっかりしろ、細野!」


 男性教諭二人は、オペレーターの指示通りに、必死に今まさに失われている命に向かって呼びかけ続けている。

 その横で、晶子は血に濡れた細野しおりの遺書を握りしめた。


(ここで、この学校で何が起こっているの?)


 晶子はこの時、まだ決まっていなかった。

 これからこの高校にまつわる惨劇に、身を投じる覚悟が、まだ。


 出来ていなかった。



「おかーさん」

「なあに、愛理」

「私、お母さんの高校に進学したいな」

「ふふふ、偏差値高いぞー、しっかり勉強しなきゃだなー?」


 ねえ。


「大丈夫、私、英語は得意科目だから。今度の期末、見ててよ」


 ねえ、愛理。


「言うねえ、ふふふ、じゃあ、お母さん待ってようかな」


 大好きだよ、愛理。


「任せて、どんな難問でも解いてあげる」


 愛してる。

 今も。ずっと。

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