第2話 忘れ物?

放課後の教室は、少しだけホコリっぽい匂いがした。

チャイムが鳴ってからすでに30分。クラスメイトたちはみんな帰るか部活に行っていて、静まり返った空間には空席ばかりが並んでいる。


私はまだ教科書をカバンに詰めながら、ちらりと黒板の前の席を見た。


——寝てる。


悠真だった。

彼は机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。体育があった日はだいたいこうなる。中学の頃もそうだったけど、彼はほんとに体力がない。

そのくせ、ピアノの発表会では2時間くらい平気で弾いてたんだから、不思議なやつだ。


「……また寝てるし」


私は椅子を引いて立ち上がり、ゆっくりと彼の席まで歩いた。


前髪が目にかかってる。

細い指先にはシャープペンが挟まったまま。ノートには中途半端な数式が書きかけで残っていた。


相変わらず、ちょっと抜けてる。

でも昔と違って、少しだけ背が伸びて、制服の襟元もきちんとしてる。

……悔しいけど、ちょっとだけ“男の子”から“男”っぽくなった、かもしれない。


「……ま、いっか」


私は軽くため息をついて、机の上に置きっぱなしの筆箱に手を伸ばす。

紺色のシンプルなやつ。中身はきっと、使い古したシャーペンが2本と、芯がない消しゴム。


「ほんとに、抜けてるんだから」


ぶつぶつ言いながらそれを手に取ったとき、不意に背後から声がした。


「……あれ、莉緒?」


びくっとした。

振り返ると、悠真が顔を上げて、まだぼんやりとした目でこちらを見ていた。


「起きたの?」


「んー……うん。てか、まだいたんだ」


「は? 私があんたの昼寝待ちしてるわけないでしょ」


「いや、別にそうは言ってな……ていうか、それ俺の筆箱?」


「そうだけど?」


「なんで持ってるの」


「拾ったの。あんたがだらしなく置いてくから」


悠真は慌てて立ち上がると、私の手の中の筆箱をちらっと見て、眉を下げた。


「ごめん、忘れてた。ありがとう」


「どうしようかな、返してほしい?」


「うん、できれば」


私は少し考えるふりをしてから、彼の胸元にそれを押しつけるように渡した。


「ほら。特別に返してあげる。わんこくん」


「……え、なにその呼び方」


「体育のあと、いつも教室で寝てるでしょ。しっぽでも振ってたら完璧よ」


「それ、犬じゃなくて……疲れてるだけなんだけど」


「わんこ認定は覆りません」


「ひどい」


そう言いながらも、悠真は笑ってた。

その顔を見て、私もつい、口角が緩みそうになるのを慌てて引き締めた。


「で、これから帰るんでしょ?」


「うん。莉緒も?」


「たまたまタイミングが一緒だっただけ」


「そっか」


ふたり並んで教室を出る。

まだ部活の声が校舎に響いていて、階段の下では運動部の掛け声が交差していた。

夕方の空気はすこし湿っていて、窓から差し込むオレンジの光が床に長い影を作っている。


こうして並んで歩くのも、なんだかんだで慣れてきた。

3年ぶりの再会から、まだ数日。

だけど、なんとなく昔みたいに自然に隣にいる自分が、ちょっと不思議で、でも——悪くない、と思ってしまう。


「ねえ」


私は、前を歩く悠真の背中に向かって声をかけた。


「ん?」


「明日は忘れ物、しないでよね」


「うん、がんばる」


「毎回拾ってあげるほど、私ひまじゃないから」


「……うん、わかった。ありがとう、今日」


「べつに。ついでだっただけ」


そう言って私は、少しだけ顔をそらした。


——ついでじゃないかもしれないけど。

でも、そう言わなきゃ、私らしくないから。


もう少しだけ、この距離のままで。

しばらくは、我慢を続けてやってもいいかな、なんて。

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