第2話:感情の羅針盤、XM3

咲はXM3のデモンストレーションを始めた。

タブレットの画面は、余計な装飾が一切なく、

まるで無地のキャンバスのようにシンプルで

洗練されていた。だけど、その黒い画面には、

底知れない可能性が秘められているように感じられた。

直感的に操作できるインターフェースは、まるで

昔からそこにあったかのように自然に、咲の指先に

吸い付く。彼女の滑らかな指の動きは、一切の迷いなく、

次々と画面を切り替えていく。咲は、自身の書きかけの

短編プロットをXM3に入力していく。それは、普段の

冷静沈着で論理的な彼女からは想像できないほど、

登場人物の心の奥底に潜む、微細な感情の機微を

繊細に描こうとする物語だった。主人公が抱える

秘めたる願い、ささやかな嘘、そしてそれに伴う罪悪感が、

一行ごとに紡がれていく。咲は、タブレットの微かな

光が彼女の顔を照らす中、XM3が物語の核となる部分を

深く掘り下げるための、様々なヒントを与えてくれると説明した。


「特に重要なのは、あなたが物語の登場人物に、

まるで生きているかのような心を与え、

彼らが自らの意志で動き出すのを感じ取ること。

登場人物の胸の内から、その行動が自然に生まれてくるような、

そんな物語の息遣いを大切にすること。

それが、読者の心を強く捉える物語への鍵です」


咲の言葉は、まるで澄み切った水のように、

部室の空気に染み渡った。

悠は、その説明を聞きながら、昨日の自分の悩みを

思い出していた。登場人物を上手く動かせず、

感情が平坦になってしまうという、あの行き詰まり。

胸の奥に深く沈んでいたその悩みが、

咲の言葉によって、まるで水面に泡が浮かび上がるように

意識に浮上する。このXM3が、本当にそれを

解決できるのだろうか。悠の心には、期待と

僅かな不安が混じり合っていた。


琴音は身を乗り出して画面を覗き込み、瞳を輝かせた。

彼女の小さな手が、思わずタブレットに伸びそうになるのを、

咲は優しい視線で制した。


「えー、この子(XM3)が全部書いちゃうってこと?

じゃあ私たち、書くことなくなっちゃうじゃん!

楽ちんすぎるー!」


無邪気に尋ねた。彼女の瞳は、まるで新しいおもちゃを

見つけた子供のようにキラキラと輝いている。

その興奮は、部室の空気を明るく照らすようだった。

咲は、琴音の質問に静かに首を振った。


「違います。この子(XM3)は、

あなたの創作の『道しるべ』となる道具です。

あくまで、書くのはあなた自身。

この子(XM3)は、その手助けをするだけよ。

例えるなら、暗い森の中を歩く時、

足元を照らしてくれる灯りのようなものよ。

道を選ぶのはあなただけど、

迷わないようにサポートしてくれる。

つまり、あなたの感情の羅針盤になってくれるの」


咲の言葉は、悠の心に深く響いた。

まるで、ずっと探し求めていた答えを、

ようやく見つけたような感覚だった。

彼女の脳裏に、これまで上手く動かせなかった

主人公の顔が、少しずつ鮮明になるイメージが浮かび上がった。

悠は、咲の言葉に納得しながら、

自分のプロットをXM3の「作例への自動フィードバック」機能に

入力してみた。それは、主人公が親友との諍いの中で、

初めて自分の本当の感情に気づくという、

悠が最も苦心していた場面だった。

タブレットの画面に、悠の入力した文章が流れていく。

数秒の静寂の後、画面に表示されたのは、

彼女が最も悩んでいた感情描写に関する的確な示唆だった。


「この場面での主人公の『喜び』は、

具体的な行動や内面描写に乏しく、

読者に伝わりにくい可能性があります。

長年の誤解が解け、心の重荷がふっと軽くなった感覚。

親友の温かい眼差しに触れ、

胸に温かな光が灯るような心地よさ。

彼女が大切にしている『友情』という価値観。

その一つ一つが、まるで目の前で息づいているように、

主人公の表情が、その場の空気が、鮮やかに立ち上がってくる。

彼女は、まるで初めて感情を経験するかのように、

その喜びを全身で表現する。」


まるで自分の心の内側を覗かれているかのような、

その精度の高さに悠は息をのんだ。そのフィードバックは、

彼女が漠然と感じていた物足りなさを、具体的な言葉で

示してくれたのだ。悠の目の前に、主人公の感情が

立体映像のように浮かび上がってくる。

それは、これまで彼女の頭の中では漠然としていた感情が、

まるで霧が晴れるように明確になっていく感覚だった。

ペンを持つ手が震えた。これは、まさに「内的に満ちたから動く」

という理想の描写へと導く、確かな道筋だった。


「……これ、私が昨日ノートにだけメモしてた、

誰にも言ってない、本当の気持ちなのに……

なんでこの子(XM3)にはわかるの?」


悠の言葉には、驚きと、かすかな畏怖が混じっていた。

琴音も興味津々で画面を覗き込む。

彼女の顔には、驚きと好奇心が入り混じっている。

咲は、その問いかけに、ふっと小さな笑みを浮かべる。

その笑みは、どこか神秘的で、全てを見通しているかのようだった。


「偶然かもね。でも、XM3って、たまにそんな

“気味が悪いほど鋭い”ところがあるのよ。

不思議よね? でも、便利だからいいじゃない?」


咲の言葉には、どこか全てを知っているような含みがあり、

読者にだけ、XM3の不気味さを感じさせる。しかし、

悠の心には、その「不気味なほど鋭い」という言葉が深く刻み込まれた。

それは、彼女の創作に新たな奥行きを与える、

不思議な感覚だった。まるで、自分の手の届かない

深い場所から、物語の源泉を汲み上げてくれるような……。


その時、画面の右端に表示された、

XM3からの次の提案に、琴音が目を丸くした。


「うわ……ガチじゃん……」


思わず漏れたその呟きには、無邪気な好奇心だけでなく、

ほんの少しの畏敬の念が混じっていた。

彼女の素直な驚きが、XM3の持つ計り知れない力を

改めて悠に強く印象付けた。


悠は、XM3がただの機械ではない、何か特別な力を持っていると

直感し、その可能性に胸が高鳴るのを感じていた。

感情の羅針盤としてのXM3の役割が明確に提示され、

悠の創作意欲が「内的に満ちた」状態へ向かい始める。

彼女の心には、これまで閉ざされていた扉が開かれ、

新しい世界が広がっていくような予感があった。

目の前のXM3が、単なるタブレット以上の、

かけがえのない存在に思えてくる。

これで、長年の悩みが解消され、

もっと自由に物語を紡げるようになるかもしれない。

そんな希望が、悠の胸いっぱいに満ちていた。

彼女の創作の旅は、まさにここから始まるのだ。

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