俺の担当するボイトレ生が推しのVtuberだった件
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第1話 ただの生徒、のはずだった。
平日の帰宅ラッシュには、まだ少し早い時間だった。
昼のレッスンが少し長引いてしまい、駅のホームに着いた頃には、時計の針は午後四時を過ぎていた。
少し遅れてやってきた電車に乗り込むと、ちょうどドア横の席が一つ空いていた。
俺はそこに腰を下ろし、イヤホンを耳に差す。
スマホの画面にはYouTubeの再生履歴。スクロールしていくと、あるサムネイルが目に入る。
そこに映っているのは、Vtuberの「天音アリア」。
透き通るような高音、芯のある歌声、そしてトークの自然さ。
“推し”なんて言葉を使うのは気恥ずかしいが、俺は彼女の歌にずっと惹かれていた。無名時代から追っていたわけじゃない。ある日偶然流れてきた歌を聴き、それから気づけば動画を漁るようになっていた。
最新のアーカイブを再生する。楽曲はスローバラード。低く、ささやくような入りから静かに高音へ向かう構成。
何度聴いても鳥肌が立つ。録音環境、ミックス、編集、どれも的確で、丁寧。音圧、リバーブ、コンプのかけ方――非の打ちどころがない。
「編集担当、誰なんだろうな……」
ぽつりと呟き、小さく笑う。
俺の名前は神谷 秋(かみや あき)、26歳だ。
音大を出たあと、バンド活動を経て、今は昼はレッスンスタジオで生徒の声を磨き、夜はPCに向かって“歌ってみた”動画の編集やミックスをする日々。地味だが、積み重ねればそこそこの収入になる仕事だ。
自分の音楽でメシを食っていく――そんな夢は、いつしか現実的な目標にすり替わった。
だからこそ、アリアの歌は刺激だった。
プロではない。けれど、音のひとつひとつに感情がこもっている。
努力のにおい。覚悟のようなものが、画面越しに伝わってくる。
電車が減速し始めた。乗り換えの駅が近づいてくる。
「……そろそろ行くか」
スマホを閉じて立ち上がる。
次の予定はボイトレのレッスン。
今日の生徒は、ここ数ヶ月で急成長を見せている女の子――椎名 澪(しいな みお)だ。
彼女の歌声には、以前から少し“引っかかり”を感じていた。
それが、今日、ようやく形を持つことになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。
⸻
スタジオの防音ドアが閉まる。
譜面を見ながら深く息を吸い、澪はマイクの前に立つ。
小柄な体からは想像できない芯のある声。
彼女が初めてスタジオに来たのは半年前。最初は声も小さく、緊張しきっていたが、今では堂々とした立ち姿を見せるようになっていた。
「じゃあ、Aメロからもう一度いこうか」
「……はい」
ピアノ伴奏にあわせて、彼女の歌声が部屋を満たす。
透明感のある中高音。少しだけ空気を含んだ息の処理。
そして何より――声の入りに、引っかかるような独特の抑揚がある。
(このタイミング……やっぱり独特だな)
歌い出しの頭が、ほんのわずかに後ろにズレる。
だが、それが不思議と耳に残る。機械的な修正が必要な「ズレ」ではなく、むしろ彼女の個性として光る“間”だ。
「……うん、Bメロの入り、すごくよくなってる」
「ありがとうございます。最近、少しだけ体でつかめてきた気がします」
澪は少しはにかみながら、汗を拭った。
(あの“引っかかり”……これは、武器になる)
俺はそう確信していた。
「今日はここまでにしようか。喉、少し乾いてきたみたいだし」
「はい、ありがとうございました」
機材の電源を落とし、片付けに入ろうとしたとき――
「……あの、先生」
澪がふと口を開いた。
その声音には、どこか張り詰めたような緊張があった。
「ちょっとだけ、お話してもいいですか?」
俺は頷き、彼女とともにレッスンルームの隣にある控室へ移動する。
白い壁と簡素なソファ。小さな机の上には、開けられていないペットボトルが一つ置かれていた。
ふたりでソファに腰を下ろしてもしばらく沈黙が続いた。
澪は、膝の上で両手をぎゅっと握っている。
「……先生って、YouTubeとか、見たりしますか?」
「ん? まあ、音楽系はよく見るよ。勉強のつもりでね」
「そう、ですよね……」
そして、また少し沈黙。
先ほど褒められたことで、彼女の中に何かが動いたのだと、その時なんとなく感じた。
俺は背もたれに軽く体を預けながら、彼女が言葉を選ぶのを待った。
やがて、澪はまっすぐこちらを見た。
その瞳は揺れていたが、同時に、覚悟を決めた人間の瞳でもあった。
「……私、Vtuberをやってます」
「へえ」
驚きはしたが、表情には出さないようにした。
この仕事をしていると、時々こういう告白を受ける。配信活動や副業として歌っている生徒も少なくない。
「名前は……“天音アリア”です」
……その瞬間、時が止まったようだった。
言葉の意味を、頭がすぐに処理できなかった。
「……なんだって?」
「……私が、“天音アリア”です」
心臓の鼓動がひとつ跳ねる。
彼女は静かに続ける。
「半年くらい前から活動してます。もともとは趣味だったんです。でもありがたいことに少しずつ伸びてきて……今は、とあるVtuber事務所のサポートを受けて、活動しています」
その声には、どこか開き直ったような、でも震えるような芯の強さがあった。
(……嘘だろ)
アリア。あの声。あの滑らかな息遣い。あの独特の“間”。
頭の中で、澪の歌とアリアの歌が、少しずつ重なっていく。
ピッチの癖。語尾の処理。息がわずかにかかる高音の入り。
確かに、一致していた。
今までの引っかかりの正体が、すべてつながっていく。
「それで……今日、事務所の方から先生に相談したいことがあって」
彼女はクリアファイルを取り出す。中には印刷された企画書らしき紙と、事務所のロゴがついた名刺が挟まれていた。
「これからの活動で、先生に……歌のディレクションと、動画の編集をお願いできないかって」
俺はそれを黙って受け取り、視線を落とした。
内容は丁寧で、案件としてはきちんと整っている。
ただ――それよりも、俺の中では別の感情が渦巻いていた。
「……それ、本気で言ってる?」
「はい。先生じゃなきゃ、ダメなんです」
即答だった。
「どうして、俺なのか、聞いてもいい?」
「半年間、レッスンを通して、私の声を誰よりもわかってくれたのは先生だと思ってます。歌い方の癖も、いいところも悪いところも、全部見てくれてる。……それに、先生がいなかったら、私は今ここまで歌えなかったと思うんです」
俺は言葉を失っていた。
まっすぐに差し出される信頼。
それは、思っていたよりも、ずっと重いものだった。
本来なら、プロとして即座に返事をすべきなんだろう。
でも、今は無理だった。
「……ありがとう。その気持ちは、すごく嬉しいよ」
できるだけ穏やかな声で、そう返した。
彼女の顔が、少しだけ緩む。
「でも……正直、ちょっとだけ、時間がほしい」
「……はい。もちろんです」
「君のことは信じてる。ただ、俺自身の問題。ちょっとだけ整理したい」
「……わかりました」
彼女は深く頷き、それ以上は何も言わなかった。
静かに頭を下げて、控室を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに重たく響いた。
⸻
控室に一人取り残された俺は、深く息を吐いた。
「……マジか」
小さく呟きながら、額を手で覆った。
(どういうことだよ……)
思考がうまくまとまらない。
ずっと聴いていた歌声。
癒され、励まされ、時には嫉妬すらした“あの声”が、まさか教え子だったなんて。
しかもその本人から、仕事を依頼されるなんて――
「おいおい……」
笑えてきた。
同時に、心の奥で確かに何かが熱を帯びていた。
(この半年間……俺は、彼女の声を、成長を、ずっと見てきたんだ)
その積み重ねのすべてが、あの歌声を形づくっていた。
俺が導いたわけじゃない。
彼女自身が、必死に道を切り拓いてきた。
けれど、少しだけでも――その“背中を押す”力になれたのだとしたら。
(……本気で、やってみる価値はあるのかもしれない)
すぐには決められない。
でも、もう無関係ではいられなかった。
駅までの夜道を歩きながら、ポケットの中のスマホを握りしめる。
ホームに着いたとき、無意識にアリアの最新アーカイブを再生していた。
スピーカーから流れるのは、あの声。
俺が誰より近くで聴いてきた、彼女の声。
(澪……)
思わず、その名を口にする。
歌が終わり、アリアの優しい声が話し始める。
笑っている。まるでいつものレッスンの後みたいに。
――あの声を、もっと遠くへ届けてみたい。
その衝動が、すでに心を動かしていた。
「どうすればいいんだよ、これ……」
苦笑混じりに呟く。
けれどその呟きの奥には、もう“覚悟”が芽生え始めていた。
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