第2話 はじまりのAメロ

平日の午後。


雨上がりの匂いがほのかに残る街角。

喧騒から少し離れたビルの地下に、小さな個人レッスンスタジオがある。


「じゃあ、今日からよろしくお願いします」


その日、レッスン室に入ってきたのは、小柄で、肩までの黒髪を真っ直ぐに揃えた少女だった。


制服のような私服。白いカーディガンの袖からのぞく細い指先は、きゅっとスカートの裾を握っている。


「……椎名 澪(しいな みお)です」


彼女は目を伏せたまま、かすれた声で名乗った。


レッスン用のカルテを手に、俺は一歩前へ出る。


「神谷 秋(かみや あき)です。担当します。声を出すのは緊張するだろうけど、最初は誰でもそう。無理はしないで、少しずつ慣れていこう」


「……はい」


椎名 澪。17歳。高校2年生。

カウンセリングシートには、ボイトレ経験は「未経験」と記されていた。


「まずは今の状態を知るために、軽く発声してもらってもいい?」


彼女は一瞬戸惑ったようにこちらを見てから、そっと頷いた。


ピアノの鍵盤に軽く指を落とす。


「“あー”の音で。この音から」


俺はミドルCを鳴らした。


澪は喉を一度ごくりと鳴らし、小さく「あ……」と声を出す。


それは、想像以上に細く、震えていた。


(これは……かなり緊張してるな)


「もう一回、リラックスして。息だけでいいから、楽に出してみよう」


「……はい、すみません」


彼女は呼吸を整えようとするが、肩が上下に揺れている。

呼吸が浅い。完全に身体が固まっていた。


けれど――


(今の声……)


小さい。かすれている。でも、耳に残った。


透き通る、というよりは、“浮遊感”とでも言うべき響き。

それは曖昧で、つかみどころがないのに、どこか心に引っかかる音だった。


「じゃあ、発声に入る前に少しだけ体をほぐそうか」


俺はそう声をかけて、軽いストレッチと深呼吸をいくつか繰り返させた。


「緊張してるよね?」


「……はい、すごく」


彼女は小さく頷いた。

声がまたわずかに震える。けれど、それだけじゃない。

“歌うことそのもの”に、澪は強い壁を感じているようだった。


(思ったよりも深い“ためらい”があるな)


俺はピアノの前に座り、ドレミの音階を軽く弾く。


「音程とかリズムとかは気にしなくていいから。まずは、息を通すだけの気持ちで“あー”って伸ばしてみて」


「……あ、あー……」


最初の声はかすれていた。声帯がしっかり鳴っていない。


何も言わず、もう一度同じ音を鳴らす。


「もう一回。今のよりも、少しだけリラックスして出してみて」


「……あー……」


2回目の方がわずかに芯が通った。

まだ緊張の色は強いが、確かに前より“鳴って”いる。


「うん、だいぶマシ。あと3回、同じようにやってみようか」


3回目、4回目、5回目。

声の中に、少しずつ“鳴り”が生まれてきた。


(なるほど……)


ここでようやく、俺は気づく。


彼女の声は非力だ。

けれど、その輪郭だけは、はっきりしている。


倍音が妙に綺麗に伸びる。響きの芯が細い代わりに、耳に残る。

まるで遠くで誰かが歌っているような、不思議な質感。


(独特だ)


上手いわけじゃない。力強くもない。

でも、普通ではない。――それは、何よりの資質だ。


「ちょっと、今の声……録音してみようか」


「えっ、もう録るんですか……?」


「大丈夫。ちゃんと歌じゃなくていい。さっきの“あー”でいいから」


インターフェースを繋ぎ、マイクレベルを調整しながら設定を済ませる。

澪はおずおずとマイクの前に立ち、俺の合図で声を出した。


「……あー……」


録音は10秒ほど。

俺はすぐにそれを再生し、彼女にも聴かせた。


すると――


「……うそ、これ……私?」


澪は、まるで他人の声を聴いたような表情を浮かべていた。

けれど、音の奥に確かに自分の輪郭が重なっていて、目がわずかに潤んだ。


「こんな……変なんですね、私の声」


「そう思う?」


「はい。なんか……震えてて、頼りなくて……」


「うん、確かにそういう印象もある。でも、俺は思ったよ」


録音をもう一度流しながら、口元をわずかに緩める。


「この声、妙に耳に残る」


「え……?」


「誰にも似てないし、空気の入り方が独特。無意識だと思うけど、“間”の取り方も面白い。――もったいないくらいだよ」


彼女はしばらく黙っていた。

自分の声に、ずっと自信がなかったのだろう。


誰にも褒められたことがなく、録音すら初めて聴いたという。


けれど俺の言葉に、ほんのわずかに表情が緩む。


「……ありがとうございます」


「うん。でも、これはスタート地点だ。声の素材が良くても、それだけじゃ通用しない。“扱い方”を覚えていかないと」


「はい」


声が、少しだけ強くなった。


レッスン後、片づけをしていると、澪がふと声をかけてきた。


「……あの、先生」


「うん?」


「今日、ちゃんと歌えなくてすみません」


「別に謝る必要ないよ。初日はあんなもん」


ケーブルをまとめながら、俺はさりげなく返す。

だが澪の表情には、まだどこか影が残っていた。


「……自分で思ってたよりも、全然、出せなくて……」


「そりゃそうだよ。プロの現場じゃないけど、機材も本物だし、マイクの前って怖いでしょ?」


「……はい、すごく」


「けど、今日出した声って、実は“地声”じゃない」


「え?」


「緊張した状態で出した声は、緊張が乗った声。まだ本当の“自分の声”にはなってないんだよ」


その言葉に、澪の目が少しだけ大きく開かれた。


「……じゃあ、私、本当の声で歌ったこと……ないかもしれません」


「だからこそ、これから探すんだ。自分の声を。“自分の音”をね」


俺は静かに、そう言った。


その言葉が、彼女の胸に真っ直ぐ届いたのが分かった。


「先生……」


「うん?」


「私……続けたいです。今日みたいな失敗でも。なんか……、もう一回やってみたくなって……」


俺は少し笑った。


「いいね。その気持ちが大事。次はもっと、面白くなると思うよ」


 


──その日、帰宅してから。


俺はレッスン日誌に簡単なメモを書き残した。

あの小さな“ひっかかり”のある声が、どうしても耳から離れなかった。



📝【生徒名】椎名 澪(しいな・みお)

【日付】4月×日

【初回レッスン】


・声質:中高音域に透明感あり

・課題:リズム感、安定性、緊張の強さ

・備考:歌に“間”がある。個性の可能性。

→妙に耳に残る声だった。



冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ふたを開ける。

その音が、やけに静かに響いた。


(……耳に残る、か)


俺はこれまで、プロの現場でも多くの声を聴いてきた。

上手い声、美しい声、響く声――数え切れないほど。


それでも、あの澪の声には“引っかかり”があった。


技術もなければ、派手さもない。

けれど、なぜか耳から離れない。


俺は、録音した音源を再生する。


スピーカーから流れる、ごく短い「あー……」という声。


(……なんなんだろうな、この声)


もう一度だけ、それを再生する。

そして、思わず小さく笑った。


 


──“自分の声、ちゃんと聴いてみたことある?”


あのときの俺の言葉は、

澪にとって、その日からずっと胸の中に残り続けることになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る