第18話. 神の為す正義
鬱蒼とした森の中を、フィオは変わらぬ足取りで進んでいた。しかし、十数時間が経過した頃、背後からついてくるフレイラの気配に、わずかな疲労が混じり始めたのを敏感に感じ取った。
「……そろそろ休もうか」
フィオは足を止め、振り返ることなく言った。フレイラは一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐに表情を引き締める。
「お気遣いには及びません。私はまだ動けます。フィオ様はどうぞお先へ」
「僕が休みたいと言っている。歩き続けるのに飽きたんだよ」
フィオは木の根元に寄りかかり、しゃがんだ。フィオはただフレイラの行動に目をやる。
「でしたら、火の準備をいたします」
フレイラはフィオの言葉を命令として受け取り、背嚢を手際よく下ろした。彼女は魔道具で火をおこすと、近くで見つけた平らで大きな石を火に焚べる。
革袋に入れた堅パンや炒り麦を石で砕き、そこに細かく刻んだ干し肉とチーズを混ぜ、少量の水を加えて粘土のようにまとめ上げた。熱した石の上に、油の代わりに動物の脂を薄くひき、生地をガレットのように平たく伸ばして載せる。じゅう、と音を立てて香ばしい匂いが立ち上った。
フレイラは、熱っ熱っ、と恐る恐る焼き上がったものを素手で掴み取る。フィオの前に進み出て膝をついた。そして、神への供物のように、両手でそれを高く献上する。
「どうぞ、フィオ様」
「いらないよ」
フィオは即答した。その返答に、フレイラは表情一つ変えない。
「……左様でございましたか。人ゴミごときが出しゃばり、申し訳ありません」
彼女はすんなりとそれを引き、自分の口元へと運んだ。
あれ? 無理矢理にでも食べさせられるものだと思っていたのに……
フィオの内心には、かつてヴェーラにされたことが不意によぎる。しかし、目の前の女はただ黙々と、自らの作った味気ない糧食を口にしている。その光景を見ていると、腹が減るわけでもないのに、口の中に奇妙な虚しさが広がる。
「食べるよ、それ」
「いいのですか! ありがとうございます!」
フレイラの声には、隠しきれない喜びの色が滲む。フィオは差し出されたガレットの端をつまみ上げ、口に含んだ。その瞬間、彼の腹の底から、ヴェーラといた頃には感じたことのない強烈な衝動が込み上げてくる。
まず……
塩と脂と穀物の、ただそれだけの味が舌を殴りつけてくる。
ただ、「おいしいよ……」とだけ呟いた。そしてゆっくりと立ち上がると、フレイラも即座にそれに合わせて立ち上がる。
「もう出発なさいますか?」
「いや、この辺りを見て回るだけ……」
フレイラが慌てて後片付けを始めようとすると、フィオはそれを制した。
「見て回るだけだと言ったろ。ここにいろ。命令だ」
有無を言わせぬ響きに、フレイラはそわそわしながらも、仕方なく残りの携帯食作りを続ける。フィオは足早にその場を離れると、太い木の陰に隠れ、先ほど口にした物以上の物を吐き出した。
「まず……。なんであんな物を食べてまで僕について来るんだよ。街にいればもっとマシな物を食べれるだろうに。それに、なんでリクシア教の歴史が史実と違うことを知っているんだ……」
フィオがフレイラの元へ戻ると、彼女は焚き火を絶やさぬまま、就寝の準備を始めていた。自作の保存食を布に包んでポーチにしまい、薄手のベッドロールを取り出す。
フレイラは慣れた手つきで腕当てを外し、次いで肩当てを解いた。最後に、一体となった革の胸当ての紐に手をかける。硬い革の拘束が解かれ、胸当てが地面に置かれると、それまでシャープなシルエットに抑えられていた彼女の上半身が、ふっと息をつくように解放された。その豊かな起伏は、機能的なアンダーウェアの上からでも分かる。
髪をまとめていた一本のかんざしを抜くと、サラサラとしたシルバーブロンドの髪が胸元まで流れ落ちた。月の光を受けて絹のように光る。その絹は、先ほどまで鎧に覆われていた肩や汗の滲む白い首筋を隠していく。
「フィオ様、これをどうぞ。粗末ですが」
フレイラは自分のベッドロールを指し示す。
「僕はここでいい。そんな物必要ない」
フィオは近くの木に背を預けて座り込んだ。
「私のすぐ近くでご就寝なされるのですか? ……光栄です。まだお会いして日が浅いというのに、私を信用していただけているのですね」
「人ゴミ程度、何を危険に感じろと? それに僕は疲れることもない。寝る必要なんてない」
「寝る必要もないのにここで夜を明かしてくださるのですか?」
「飽きたからだと言っただろ。夜は活動しないものだと知っただけだ」
フレイラは、神が自分のために夜を共にしてくれるという事実に、静かな感動を覚えていた。
フレイラが寝たであろう時間が経った後、フィオはふと声をかけた。
「フレイラ……」
フレイラは初めての名前での呼びかけに動揺を隠せず、心を落ち着かせてからベッドロールをどける。彼女は音もなく身を起こすと、フィオの前に跪き、その紅い瞳を見上げた。
「……はい。何でございましょう」
「まだ起きていたのか……。お前はなぜリクシア教の教えが史実と違うと知っている」
フィオの純粋な疑問だ。しかし、フレイラは淀みなく答える。
「私の父は歴史学者でした。彼は史実を追い求めるうちに、リクシア教の教えと歴史の間に存在する数多の差異を知ったのです。初代国王レクロマ様が四肢の自由を失っていたこと、第二代国王レティア様が、実は反乱の首謀者であったこと……」
彼女の声は、夜の静寂に吸い込まれるように静かだった。
「ですが、その真実は国を統治し、宗教を維持するにはあまりに都合が悪かった。父は真実を公にすれば自らも家族も破滅すると悟り、研究の成果を私や妹に語り継ぐに留め、母の剣術道場を手伝う道を選びました」
フレイラは一度言葉を切り、フィオをまっすぐに見つめ直す。
「先のアスラト様との戦いを拝見し、全てが繋がりました。フィオ様が、レクロマ様とシア様の御子であり、聖剣ソルデフィオの化身であるということも。……もし、フィオ様の御心の邪魔にならぬのであれば、どうかお聞かせ願えないでしょうか。父が知ることのできなかった、真実の物語を」
その真摯な願いに、フィオの口元が微かに緩む。
お母さんの話を、この人ゴミに? 悪くない。
「いいだろう。貴様が聞きたいというのなら、話してやる。僕の完璧なお母さんの物語を」
フィオは、まるで宝物について語る子供のように、シアとの出会いから、父レクロマの苦悩、そしてその最期までを語り始めた。その声には、先程までの傲慢さとは違う、純粋な愛情と誇りが満ちている。
フレイラはただ黙って、その言葉の一つひとつを心に刻みつけていく。
フィオ様の苦悩、私ごときには到底分かりきれるものではない。しかし……
彼女は、神としてではなく、ただ一人の子供として母を語るフィオの姿に、自らの父の姿を重ねていた。彼女は、神としてではなく、一人の息子として母を語るフィオの姿に、自らが否定した「甘ったるい英雄譚」とは違う、血の通った真実の物語を見た。
私も、この方の背負う想いを、共に負いたい。
フレイラは静かに顔を上げ、跪いたままフィオを見据えた。そのワインレッドの瞳には、揺るぎない光が宿っていた。
「何より美しい正義……感動いたしました。どうか、あなたの正義の執行を、最後までこの目で見届けさせてください」
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