第3話
「あれ?」
日が落ちて辺りもすっかり暗くなった夜七時。
一体どこまで散歩に行っていたのか、黎がようやく寮の部屋へと戻ってきたかと思うと不思議そうに小首を傾げた。
それもそうだろう、黎が家を出る前と今では部屋の中は劇的な変化を遂げているのだから。
なんという事でしょう、床を多い付くさんばかりに脱ぎ散らかされていた衣類は全て洗濯されて収納スペースに仕舞われ、ほっぽられていたゴミは種類毎に分別しゴミ袋に纏められ、顔を出したフローリングにはワックスを掛けてほこり一つ無い。
使われた形跡もなく埃をかぶっていた台所のシンクは輝きを放ち、黒カビが蔓延っていたバスルームは元の白く美しい姿を取り戻し、ベットメイクだってホテル顔負けに仕上げた。
昔から何か始めるとコツコツいつまでも続けて仕舞う性分だが、我ながら引っ越し早々よくもまぁここまでやったもんだと関心する。
とはいえ内心、黎がどんな反応をするのか亜香里は気が気では無かった。
先住者である黎が居ぬ間に勝手な事をして気分を悪くされたらどうしよう、何も好き好んでこれから同じ部屋で暮らすルームメイトと喧嘩なんてしたくない。
「えっと、部屋がちょっと散らかってたから片付けて見たんですけど……どうでしょうか?」
戦々恐々としながらお伺いを立ててみる、すると黎は部屋を見回しながら二、三回目をぱちくりと瞬きさせて。
「ふーん、ありがと」
一言、それだけだった。
別段怒るわけでもなく、最初から部屋が散らかっていようが片付いていようが、別に大して気にしていないようなそんな感じの様子だった。
なんだか拍子抜けだが、とりあえず機嫌を悪くする様な事はなかったみたいででホッとする。
黎は片付けられた部屋を何事もなかったように横断し、部屋の隅に置かれた段ボールからカロリーメイトの箱を一つ取り出すとその場で開封してもそりもそりと食べ始めた。
「あの、好きなんですか? カロリーメイト」
「いや別に。ただ楽だからさ」
返されたその淡泊な返事に亜香里の中にくすぶっていたある嫌な予感が一際に大きくなる。
掃除をしている時から妙だと思っていた。あれだけ部屋が散らかっていたにも関わらず、部屋からは生ものが
その理由は掃除をしている内すぐにわかった、この部屋には生ゴミはおろかコンビニ弁当の容器すらなく、出てくるのは今黎が食べているカロリーメイトの空き箱ばかり。
まともな食事を取った形跡というものがこの部屋には一切無かった。
「えっと、ご飯はいつも外で食べてるんですか? 学食とか」
亜香里は頭の中に浮かぶ荒唐無稽な予想を振り払い、ごく全うかつ現実的な質問を投げかけるが、無情にも黎はその首を横に振った。
「……まさか、毎日三食
「? そうだけど」
「いや、さすがにそれはダメでしょう!」
亜香里は思わず叫び、黎が驚いてその肩を小さく跳ねさせる、先輩相手にため口をきいてしまったが今はそれどころではない。
「毎日カロリーメイトだけって正気? そんな食生活じゃいつか死んじゃうよ!」
「別に大丈夫だよ、必要な栄養はとれてるし」
「そういう問題じゃありません! ご飯をちゃんと食べないなんて、人として、いいえ! 生き物の営みとして問題があります!」
「えー、だって料理するのも買いに行くのも大変だし、そもそもご飯を食べること自体面倒くさいし」
さも当然の事みたいに不満を垂れる黎の言葉に亜香里は文字通り絶句する、まさか食事という行為そのものを面倒くさがる生物がこの世に居るだなんて思いもしていなかった。
そんな話を聞いた後だと、黎の細くて痩せ気味の体がなんだか酷く不健康なものに見えてしょうがなく思えてきた。
夏休み親の実家に帰ると祖父母や親戚が太らせて食べる気なのかと思うほど、ご飯を食べろ食べろとうるさく言ってきたことを思い出す。
当時は子供心に鬱陶しく思えて仕方なかったけれど、ごめんなさいおじいちゃんおばあちゃん、今になってその気持ちが少し分かった気がします。
「……ちょと待っててください」
そう言って亜香里は立ち上がりまっすぐ台所へ向かうと、手慣れた手付きでエプロンを身に着け実家からもってきたマイ包丁でホームセンターへ行くついでに買ってきた材料達を適当なサイズに切り分け始めた。
「なにやってるんの?」
「わっ! ちょっと危ないですよ」
にんじんにタマネギにジャガイに豚肉、お馴染みの食材達を切り分けていた亜香里の肩に突然黎がちょんと顎を乗せて覗き込んできて、思わず亜香里の眉間に皺が寄る。
「何って、カレーを作ってるんです。別に珍しくもないでしょう?」
「うん、でも母さん以外の人が料理してるところなんて初めてみるから」
そう言って黎は興味深そうに目を輝かせている、一体何がそこまで面白いというのか亜香里にはさっぱりだ。
「別に見てるのはいいですけどあんまりくっ付かないでくださいね、危ないから」
切り分けた具材を油を引いた鍋で炒めて水を張り火を掛けて一煮立ち、ルーを入れるときはダマにならないようスライサーでスライスしながら入れるのが亜香里流。
煮込んでいる間にレンジでパックご飯を暖める、本当なら一から炊きたかったけれどさすがにそんな時間は無かったのでそこは妥協する。
ちょうどルーが溶けきり食材にもいい具合に火が通った頃合いでレンジがチンッと軽快な音が鳴り、後はお皿に盛り付ければカレーライスの完成だ。
部屋の中央にある座卓にできあがったカレーライスを二つ並べる。
「さっ! 先輩も座ってください」
「え? 私も?」
「当たり前です、なんのために多めに作ったと思ってたんですか。ほらいいからさっさと座りましょう」
「ええ~~」
「ええーじゃない! ほら手を合わせて、頂きます! はいっ!」
「……頂きます」
少しめんどくさそうにしながらも、黎は手を合わせてからスプーンを持ってカレーとご飯をすくいパクリと一口食べる。
一体どんな反応をされるだろうか、料理も絵も自分が作り上げた物が誰かに評価されるというのはどれだけやっても少しだけ緊張する。
亜香里が固唾を呑んで見守る中、最初はどこかムスッとしていた黎だったが、カレーを咀嚼してる内に表情が少しずつ柔らかくなり、それから一言。
「……美味しい」
零れるように言って、また一口、もう一口と黎は噛み締めるよう黙々とカレーを食べ進めていく、どうやらお気に召すことが出来たみたいだ。
「ふふん、どうですか? カロリーメイトが悪いとは言いませんけど、やっぱりちゃんとしたご飯が一番でしょ」
まんざらでも無い黎の様子に得意顔になる亜香里だったが、そんなところに思わぬ不意打ちが飛んでくる。
「それもあるかもしれないけど。誰かが作ってくれたご飯ってこんなに暖かくて美味しいんだね、忘れてたなぁ」
「えっ、う、あ、それは、……ども」
まさかそんな大層な賛辞の言葉飛んでくるだなんて思ってなかった、なんだか急に頬が熱くなってくる。
「でっでもほら、カレーって食材切って煮込んでルーを入れれば誰でも作れるし、お礼ならルーを作った会社に言ってくださいというか、私なんてぜーんぜん大したことしてないと言いますか!」
あんまりに照れくさくって、もう誰に対してなのかよく分からない弁明を口走る亜香里だったが、黎は首を小さく横に振って。
「ううんそんな事ない、とっても美味しいよ」
逃げ場がないくらいストレートな感謝の言葉に、亜香里はとうとう撃沈して何も言えなくなった。
まさかここまで喜んでもらえるなんて思ってもいなくって困惑してしまうけれど、それでもやっぱりこうして感謝されるのは嬉しい。
だからつい、調子に乗ってそんなことを提案してしまった。
「あの……それなら、これからは私がご飯を作りましょうか?」
「……いいの?」
突然の提案に小首を傾げる黎、亜香里も言ってしまってからハッとするけれど今更やっぱりなしとは言えない。
「いやほら、私は料理するの好きだし黎さんほっとくとまたカロリーメイトばっかりになりそうで心配だし、やっぱり健康って大事じゃないですか、だから……えっと?」
だんだん自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。
勝手にドツボにはまって混乱する亜香里を見て黎があははと愉快そうに笑った後。
「ありがとう、そうしてくれるならわたしは嬉しいな」
そう言って黎に思わずドキリとする程の綺麗な微笑みを向けられて思わず視線が逃げた、なんで逃げたのかは亜香里にもよく分からない。
ふと、これはもしかしていいように煽てられているだけなんじゃないかと一瞬思う。
だけれど、黙々と嬉しそうにカレーを食べる黎を見ていたらなんだかそれでもいい様な気がしてきた。
それから二人はそろってカレーを食べ終えてごちそうさまをする。
亜香里が二人分の食器を片付けてシンクへと向かおうとしたその時「あっそうだ」と後ろから黎が声を掛ける。
「さんはいらない、
それが黎と出会い最初に過ごした一日の話だ。
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