第2話

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 桜が花開く四月の春。入学式の少し前、実家から美大の学生寮へ引っ越しをするその日、佐藤さとう亜香里あかりの気分は憂鬱だった。


 親元から離れて生活する事への不安もあったがそれ以上に亜香里を憂鬱にさせるのはこれから一緒に生活することになるルームメイトの事だ。


 ルームメイトの名前は春夏冬あきなしれい、亜香里と同じ美大の彫刻科に所属する二年先輩の三年生だ。


 曰く、著名なフランス人彫刻家を祖父に持つだとか。


 曰く、本人も学生ながら個展を開き業界から高い評価を受けているだとか。


 曰く、彼女の作品にオークションで七桁以上の値が付いただとか。


 ちょっと調べただけで、そんなどこまでが本当なのか疑いたくなるような話ばかりが聞こえてくる。


 天才。


 安易な言葉だがそれしか言いようがないほどに彼女の経歴は華々しいものだった。


 そんな天上人と受験にひぃひぃ言いながら一浪してようやく入学できたような自分が同じ部屋で生活するなんて月とすっぽんもいいところだ、気後れするなっていう方が無茶な話だろう。


 定員の問題で寮には入れないかもと言われてたところに、生徒の中退で部屋が空いたと聞いてついダボハゼのごとく食いついてしまったけれど、今思えば失敗だったかもしれない。


 とかなんとか、そんなことをうだうだ考えている内にたどり着いてしまった自室の前で亜香里は一度大きく深呼吸をして気持ちを切り替える。


 決まってしまったものはもう仕方がないそこは受け入れよう。せっかく苦労して手に入れた憧れのキャンパスライフこんなところでくじけてたまるか、と気合をいれて亜香里は呼び鈴へと手を伸ばした。


 ピンポーンとおなじみの音が響くが中からの反応はない、今日来ることは伝えられているはずだが出かけているのだろうか?


 自分用の鍵は預かっているので部屋へ入ることは出来るのだが、ルームシェア相手が居ない間に上がり込んで荷ほどきをするというのはなんとも気まずい。


 せめて挨拶の一つくらいはしておきたいと未練がましく二度、三度と呼び鈴を鳴らしていると。


「……うるさいなぁ、もー」


 ようやく中から寝ぼけたような返事が返ってきて玄関の扉が開く。中から顔を出したその人物は亜香里が前もって想像していた人物像とは違っていた。


 もっといかにもな威厳でオーラを感じさせる様な人物を想像していたのだが、目の前にいるその人はなんと言うべきか端的に言えばひどくだらしない印象だった。


 おしゃれやこだわりというよりはただ切るのが面倒でそのままにしている様な印象を受ける長い黒髪、服はほとんど着ておらず唯一身に着けている白いワイシャツは第二ボタンまで外れ胸元や太ももの付け根まであらわになってしまっている。


 あんまりにあられもない姿、でもそんな身なりにもかかわらず彼女からは下品さや不潔さをあまり感じない。


 髪の隙間から覗く顔は堀が深くてくっきりとした目鼻立ち、痩せ気味だがその肢体はスラリと美しく、肌は今まで太陽の光を浴びたことがないんじゃないかと思えるほど白い。


 祖父がフランス人だという話だったが彼女のどこか日本人離れした容姿はそれが事実だと納得させるものがある。


 頭からつま先まで誰かに作られたように美しく整った彼女はすごく綺麗でそうまるで――。


「彫刻みたい」


 零れるように呟いてから亜香里はあっと自分の口を手で覆った。


 開口一番に何を訳の分からないことを口走ってるのよ私は! アホ! バカ!


 声には出さず自分を罵ってみるがそれで失言が消えるわけじゃない、恥ずかしいやら申し訳ないやら、亜香里が顔を赤くして悶えていると。


「……ぷっ、あはは!」


 なぜか目の前の彼女が急に笑いだした。何がどうしたのかと亜香里がキョトンとしていると。


「そうか、彫刻、わたしは彫刻か! うん、たしかに! なるほどね!」


 いったい何がそんなに面白かったのか亜香里には全く分からないが、目の前の彼女はまあ楽しそうに笑っている。


「わたしが彫刻ならそうだな君は……その辺の石とか?」


 あれ? ひょっとして今バカにされた?


 いきなり意味不明なことを言われてむっとなるが、目の前の彼女はいまだに楽しそうに笑っていて悪意がある様には見えない。


 本当にいったい何がそんなにツボにはまったというのだろうか? まぁ、美大には変な人が多いってよく聞くけれど……。


「ところで……」


 ひとしきり笑った後、彼女はまるで本物の琥珀のように綺麗なアンバーアイを怪訝に細めて一言。


「……君、誰?」


「あっえっと佐藤亜香里です。今日からこの部屋を一緒に使わせて頂く事になって、学校の方から話がきているはずですけど、聞いてないですか?」


「あれ、そうだったけ? 言われてみれば言ってたようなきもするけど、うーん……ごめん、覚えてないや」


 あっけらかんとした様子でそう言うがいくら何でも同室がやってくることを誰も彼女に伝えていないと言うのは考えにくい、実際亜香里は学校から既に話を通してあると聞かされてここに来ている。


 だからほぼ確実に黎は亜香里が今日来ることを知っているはずだ、それなのにこれである。


 仮にもこれから一緒に生活する相手の事を忘れるふつー? と愕然とした気持ちになる亜香里だったが、当の黎は気にする様なそぶりも見せない。


「まっいいや、そういうことなら早く入りなよ」


 そう言って黎は扉を開けたまま亜香里に背中を向けてさっさと部屋の中へと戻っていってしまった。


 なんだか釈然としない気もしたが、いつまでも玄関前に立っている訳にもいかない入っていいというのならそうさせてもらうまでだ。


 お邪魔しますと申し訳程度に言って部屋の中に入ったその瞬間、亜香里はうわ~と顔をしかめた。


 部屋は一般的な1LDK、しかしその惨状は酷い物だった。


 黎の物であろう衣服や下着類と一緒にゴミと思われる物が辺り一面に散乱し、室内は生活感が満ち満ちていた。


 率直に言えば汚い、それはもうすっごく。

 

 黎はそんな中をゴミだろうが脱ぎ散らかした衣服だろうが構う事無く踏みつけながら歩き、床に落ちていたジーンズを手に取るとそれを履いて亜香里の横をすり抜けて玄関で靴を履き扉を開く。


「あれ、どこか出かけるんですか?」

 

「ん? 散歩」


 それだけ言うやいなやそのまま黎は外に出かけて行ってしまった、ぽかんと立ち尽くす亜香里を一人置いて。


 え、え? 何、散歩? このタイミングで? ほぼ初対面の人を部屋に置いて? 嘘でしょ、私が泥棒だったらどうするのさ。


 亜香里からすれば正気と思えないような行動に思わず呆然としてしまうが、すぐハッと我に返る。


 なにはともあれ部屋には入れたのだ早く荷物を開いてしまおう。そう思い亜香里は実家からここまで引いて来たキャリーケースに手を掛けようとするが、ふとその手が止まる。


 改めて今自分がいる場所、これからしばらくの間を過ごすこととなる部屋を見回してみる。

 

 散らかっているそれはもうとっても、足の踏み場もないほどに。


 突然だが亜香里はこう見えて昔から忠実まめな性格だった、理由は多分下に妹と弟がいるお姉ちゃんだったからだろう。


 部屋は弟妹達の分まで定期的に掃除していたし、仕事で両親が遅くなるときは家族の料理だって作ってあげていた、洗濯や裁縫だって最近の若者にしては出来る方だという自負だってある。


 そんな彼女が見るも無残なこの部屋に放り込まれたらいったいどうなるか。


「あ~ダメッ! 我慢ならない!」


 雄叫びを上げて亜香里は立ち上がると部屋の中にある引き出しや開きを片っ端から開け放ち中にある物を確認しながら必要な物を脳内でリストアップする。


 ダッシュで玄関へと向かいしっかりと戸締まりをしてから寮を出る、向かうは大学近くにあるホームセンター。


 亜香里はもうとにかく、一刻も早く、散らかり放題になっているあの部屋を片付けてやりたくてしょうがなかった。

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