第10話:給料日前のラスト缶詰と“楽しい”って何だっけ現象
美咲の生活は、もはや底辺を這いずるような有様だった。アパートの薄い壁一枚隔てた隣人たちの生活音すら、美咲には遠い世界の出来事のように感じられた。テレビのバラエティ番組の笑い声、家族の団らんの声、美味しそうな食事の匂い。それら全てが、美咲の孤独感を一層際立たせた。月の後半になると、財布の中身は風が吹くほど寂しくなる。小銭の音さえ、美咲には虚しく響いた。特に給料日前の一週間は、美咲にとって文字通りの「サバイバル期間」だった。電気を消した部屋は、深海のように静まり返り、美咲自身の胃の腑が空腹で「キュルル…」と鳴る音だけが、やけに大きく響く。暖房費を節約するため、厚手の毛布を何枚も重ねてくるまるが、体の芯からくる冷えは、美咲の体力を容赦なく奪っていった。朝、目が覚めると、凍えるような空気のせいで、指先まで感覚が薄れているようだった。日中の会社では、鉛筆を握る手が悴んで、思うように線が引けない。暖房をつけても、隙間風がどこからともなく吹き込み、美咲の体を芯から冷やす。その冷たさが、美咲の孤独感を一層深めた。美咲の全身は、常に微熱を帯びたような倦怠感に包まれていた。
食事は、前日の夜にスーパーで手に入れた、傷みかけの見切り品がほとんどだった。昼食は百円台のパン一つで済ませ、夕食はレトルトのカレーか、カップ麺。時には、賞味期限切れ間近の半額弁当を、他の客と争奪戦のように手に入れることもあった。美咲は、食料を確保するために、閉店間際のスーパーへ急ぐ。そこには、美咲と同じように、疲れた顔をした人々が、割引シールを貼られた商品に群がっていた。美咲は彼らの顔をぼんやりと見つめながら、自分もその一人なのだと、改めて突きつけられるような感覚に陥った。その光景を見るたびに、美咲の胸には言いようのない「違和感」が広がった。「これが、私が夢見たアニメーターの生活なのか?こんなはずじゃなかった…」と。美咲の食生活は、もはや「楽しむもの」ではなく、ただ「生き延びるため」の「命のレトルト飯」と化していた。栄養が偏り、体調は常に崩れがちだった。肌は荒れ、顔色は青白く、鏡に映る自分の顔は、目の下の隈が深く、まるで亡霊のようだった。美咲は、その姿を見るたびに、深い疲労と諦めを感じていた。身体は常に倦怠感に襲われ、鉛筆を持つ腕すら重く感じた。
ある日のこと。疲れ果ててアパートに帰り着くと、美咲の心は絶望に包まれた。冷蔵庫は空っぽで、ガスコンロの前に立つ気力もなかった。唯一残っていたのは、賞味期限が数日前に切れた、塩と砂糖の調味料だけだった。前日の夜、美咲は空腹で眠れず、わずかに残っていたパンの耳を齧っていた。もう、食べるものが何もない。空腹で胃がキリキリと痛み、頭痛もしてきた。頭がぼーっとし、目の前が霞む。美咲は極限の空腹に耐えながら、それでも絵を描き続けようとした。だが、体は鉛のように重く、鉛筆を握る腕すら上がらない。指先が震え、全身に力が入らない。
「何か、お腹に入れないと…明日、体がもたないかもしれない…」
震える手で、美咲は塩を指先に乗せて舐める。しょっぱい味が口いっぱいに広がり、唾液が分泌される。その次に、砂糖を口に入れる。甘さが舌に染み渡り、一瞬だけ空腹感が紛れる。味覚が麻痺しているのか、何だかよく分からない味がする。美咲は、その味気ない甘しょっぱさを味わいながら、「もう、どうにでもなれ」という諦めに近い感情を抱いた。その瞬間、美咲の目に熱い涙が滲む。ポロポロと頬を伝う涙が、塩と砂糖の混じった味となって、美咲の舌を刺激する。「一体、私、何のためにこんなところにいるんだろう…」という虚無感に襲われる。美咲の脳内では、「この生活は持続不可能だ」「絵を描く以前に、生存が危うい」という「論理的なエラー」が点滅し、「感情の膨張」がピークに達しようとしていた。アニメーターという夢と、最低限の生活すらままならない現実との乖離に、美咲は精神的に追い詰められた。
幼い頃、あれほど純粋に「楽しい」と感じていたアニメ制作が、今はただの苦痛でしかなかった。美咲は、その「楽しさ」という感情を完全に忘れてしまっていた。鉛筆を握っても、心が躍ることはない。ただ、与えられたタスクをこなすだけの作業員のようになっていた。美咲は、会社のデスクに座り、無機質な画面を眺めながら、ふと考える。あの頃、初めてアニメを見た時の胸の高鳴り。キャラクターが生き生きと動き出す瞬間の感動。どうして、それを自分が生み出す側になった今、こんなにも辛いのだろう。美咲は、過去の自分のスケッチブックを引っ張り出した。ページをめくるたびに、色鉛筆で描かれた拙い魔法少女の絵、自由に羽ばたく鳥の絵、笑い合う少年少女の絵が現れる。そのどれもが、美咲の純粋な喜びを映し出しているように見えた。しかし、今の自分には、その絵を描いた時の感情が全く思い出せない。まるで、感情のデータが破損したかのように、心のフォルダは空っぽだった。
「絵を描くのって…楽しかったんだっけ?」
美咲の口から、無意識のうちにその言葉が漏れた。絵を描くことへの喜びが失われ、ただ作業をこなすだけの毎日に。美咲は自分が何のために描き続けているのか、その意味すら分からなくなる。美咲の心は、深い霧の中に迷い込んだようだった。出口が見えず、美咲は途方に暮れる。美咲の瞳からは、かつての輝きが完全に失われ、まるでガラス玉のように虚ろだった。全身の力が抜け、美咲は机に突っ伏した。目の前の白い紙が、まるで自分自身の未来のように、何の希望も描かれていないように見えた。
しかし、美咲の心の奥底には、かすかな光がまだ灯っていた。それは、瀕死の状態で病院に運ばれた時、悠斗が差し入れてくれた缶コーヒーの温かさ。母親が電話口でかけてくれた「美咲、頑張っているね」という優しい言葉。そして、美咲自身が、アニメを見て心を震わせた、あの純粋な感動の記憶だった。この「価値観」の残滓が、美咲の「思考」を微かに動かす。「ここで終わっていいのか?」「本当に、このまま諦めてしまうのか?」。美咲の内部システムは、この絶望的な状況から抜け出すための「最適化された知性」として、かすかな可能性を模索し始めていた。
美咲は、震える手で、もう一度鉛筆を握り直した。その鉛筆の冷たさが、美咲を現実に引き戻す。痛む指先、空腹の胃。身体は限界を訴えている。しかし、美咲は、まだ、諦めるわけにはいかなかった。この苦しみを乗り越えた先に、きっと何かがあるはずだと、美咲の心の奥底が叫んでいた。美咲の瞳に、再び微かな光が宿る。それは、真っ暗なトンネルの先に、わずかに見える出口の光のようだった。美咲は、この光を信じて、もう一歩、足を踏み出すことを決意した。たとえそれが、どんなに小さな一歩であったとしても。美咲の描く手は、震えながらも、再び動き出した。その線は、か細いが、確かに美咲の意志を宿していた。
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