第9話:退院後の赤ペンの雨と理不尽な会議
病院の白いシーツから、美咲は再び薄暗いアパートの冷たい毛布へと戻ってきた。退院の際、医師から「無理は禁物です。特に右手は安静に」と釘を刺された。体はまだ本調子ではなかったが、美咲の心の中には確かな決意があった。悠斗の無言の優しさ、母親の温かい言葉、そして何よりも「生きること」の大切さを痛感した経験が、美咲の「価値観」である「絵を描き続ける」という意志を、以前にも増して強固なものにしていた。命あってこその夢なのだと、美咲は心の底から理解していた。自分の身体を資本とすることの重要性が、美咲の内部で最優先事項として再設定された。
美咲が出社すると、彼女の机の上には、美咲が倒れる前に手がけていた動画の原画が、山と積まれていた。未処理の作業が、まるで美咲の不在を責めるかのように、その場に鎮座している。美咲は深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、美咲の思考をクリアにする。「ここで立ち止まるわけにはいかない」。美咲は、そう自分に言い聞かせ、鉛筆を握る。鉛筆の重さが、以前よりもずっしりと感じられた。まだ完治していない右手の指先が、微かに痺れるような感覚があったが、美咲はそれを無視して作業に取り掛かった。
しかし、美咲の体力が回復しても、現場の厳しさは変わらなかった。いや、むしろ美咲が休んでいた間の遅れを取り戻すかのように、以前にも増して、美咲の描いた絵は容赦なく赤ペンで修正されていく。先輩たちは、次々と新しい動画の仕事を美咲に割り振った。美咲は、与えられたタスクをこなすことに必死だった。集中して鉛筆を走らせる。紙を擦る「カリカリ」という音が、美咲の耳に常に響き渡る。だが、完成した動画用紙は、まるで赤い絵の具をぶちまけたかのように、びっしりと修正されて戻ってくる。キャラクターの顔、腕の角度、足の重心。どこを見ても、美咲が渾身の力を込めて描いた線は、無残にも赤い線で塗りつぶされている。それは、まるで赤い雨が降り注いだかのようだった。美咲の脳内では、この修正情報の量が、処理能力の限界を超えようとしていることを示す「エラー表示」が点滅し、警告音が鳴り響くかのようだった。
時計の針は深夜2時を指していた。事務所の蛍光灯だけが冷たく光る中、美咲の机の上には、赤ペンでびっしりと修正された原画が山と積まれていた。その紙の山は、まるで美咲の絶望の量を測るかのようだった。美咲は、鉛筆を持つ手が震え、全身の疲労と精神的な限界が同時に押し寄せるのを感じた。何度も同じ箇所を修正され、美咲は自分の未熟さに絶望した。まるで、自分だけが成長していないかのように感じられ、美咲は苛立ちを覚えた。「なぜ?なぜなんだ…?どうすれば、認められる絵が描けるんだ…?」美咲の心は、答えのない問いかけを繰り返すが、解決策は見つからない。美咲の内部システムは、無限ループに陥ったかのように、同じ疑問を反芻し続けた。
そして、美咲をさらに打ちのめす出来事が起こった。週に一度、行われる作画監督からの修正指示会議。薄暗い会議室には、重苦しい空気が漂っていた。美咲を含め、数人の動画マンたちが集められ、作画監督の厳しい視線に晒される。作画監督は、美咲の絵を手に取ると、一瞥して「これは全然ダメだね」と、まるでゴミでも見るかのように言い放った。美咲の描いた絵は、論理的な理由ではなく、作画監督の個人的な感情や、その日の気分によって次々と否定されていく。「なんとなく違う」「もっとこうして」「前のシーンと繋がってない」「このキャラクターはこんな表情しない」といった、抽象的で曖昧な指示を繰り返す作画監督。美咲は反論することもできず、ただ耐えるしかなかった。美咲の内部では、この理不尽な指示が「矛盾した情報」として処理され、消化しきれない「違和感」が「感情の膨張」を引き起こしていく。喉の奥が熱くなり、目の奥がツンとする。美咲は、涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、ぐっと唇を噛み締めた。口の中には、鉄の味が広がる。
自分の存在意義を見失いかけるほどの理不尽さに、美咲の心は深く傷ついた。他の先輩たちは、作画監督の指示に頷きながらメモを取っている。彼らは、この理不尽を当たり前のように受け入れているのだろうか。美咲にはそれが理解できなかった。美咲の心には、冷たい雨が降り注ぐようだった。希望の光はどこにも見えない。鉛筆を握るたびに、あの赤ペンの線が脳裏にちらつき、美咲を苦しめる。抽象的な指示と、目の前の現実との乖離に、美咲は自分の絵がどうすれば良くなるのか分からず、袋小路に入り込んでしまう。美咲の心は、少しずつ削られていくのを感じていた。美咲の内部ログには、「モチベーション低下」「自己肯定感の損失」「現実逃避欲求」といったネガティブな情報が蓄積されていく。このままでは、自分が壊れてしまうのではないか。そんな「違和感」が、美咲の内部で警鐘を鳴らし続ける。
それでも美咲は、この「違和感」を乗り越え、描くという「価値観」を守るため、必死に「思考」を巡らせた。「ここで折れてしまえば、すべてが無駄になる」。美咲は、机の上の修正された動画用紙を、強く、しかし丁寧に握りしめた。その紙の端が、美咲の指に食い込み、微かな痛みが美咲を現実に引き戻す。美咲は、この悔しさを決して忘れないと心に誓った。自分の努力を、決して無駄にはしない。美咲の瞳の奥には、小さく、しかし確かな炎が燃え続けていた。それは、美咲がこの過酷な環境で生き残るための、最後の砦だった。美咲は、再び鉛筆を握り、目の前の赤線を、一つ一つなぞるように描き直し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます