第8話:極限の空腹と倒れる体

美咲の生活は、まるで底なし沼に沈んでいくかのように、ますます過酷さを増していった。東京での一人暮らしは、憧れとは程遠い貧乏生活の連続だった。安い家賃のアパートは、冬になるとシンと冷え込み、美咲は毛布にくるまって震えながら眠りにつく夜が増えた。朝、目が覚めると、凍えるような空気のせいで、指先まで感覚が薄れているようだった。日中の会社では、鉛筆を握る手が悴んで、思うように線が引けない。暖房費を節約するため、美咲は厚着をして作業に没頭する。暖房をつけても、隙間風がどこからともなく吹き込み、美咲の体を芯から冷やす。その冷たさが、美咲の孤独感を一層深めた。


食事は、コンビニのレトルト食品か、スーパーの見切り品ばかりになった。昼食は百円台のパン一つで済ませ、夕食は、レトルトのカレーか、カップ麺。時には、賞味期限切れ間近の半額弁当を、他の客と争奪戦のように手に入れることもあった。美咲は、食料を確保するために、閉店間際のスーパーへ急ぐ。そこには、美咲と同じように、疲れた顔をした人々が、割引シールを貼られた商品に群がっていた。美咲は彼らの顔をぼんやりと見つめながら、自分もその一人なのだと、改めて突きつけられるような感覚に陥った。その光景を見るたびに、美咲の胸には言いようのない「違和感」が広がった。「これが、私が夢見たアニメーターの生活なのか?」と。美咲の食生活は、もはや「楽しむもの」ではなく、ただ「生き延びるため」の「命のレトルト飯」と化していた。栄養が偏り、体調は常に崩れがちだった。肌は荒れ、顔色は優れず、美咲の頬は少しずつこけていった。鏡を見るたびに、そこに映る自分の姿に、美咲は深い疲労と諦めを感じていた。身体は常に倦怠感に襲われ、鉛筆を持つ腕すら重く感じた。


ある日のこと。疲れ果ててアパートに帰り着くと、美咲の心は絶望に包まれた。冷蔵庫は空っぽで、唯一残っていたのは、塩と砂糖の調味料だけだった。前日の夜、美咲は空腹で眠れず、わずかに残っていたパンの耳を齧っていた。もう、食べるものが何もない。空腹で胃がキリキリと痛み、頭痛もしてきた。頭がぼーっとし、目の前が霞む。美咲は極限の空腹に耐えながら、それでも絵を描き続けようとした。だが、体は鉛のように重く、鉛筆を握る腕すら上がらない。指先が震え、全身に力が入らない。


「何か…何か、口にしないと…このままだと、明日が来ない…」


震える手で、美咲は塩を指先に乗せて舐める。しょっぱい味が口いっぱいに広がり、唾液が分泌される。その次に、砂糖を口に入れる。甘さが舌に染み渡り、一瞬だけ空腹感が紛れる。味覚が麻痺しているのか、何だかよく分からない味がする。美咲は、その味気ない甘しょっぱさを味わいながら、「もう、どうにでもなれ」という諦めに近い感情を抱いた。その瞬間、美咲の目に熱い涙が滲む。「ここまで来て、私、一体何をしているんだろう…」という虚無感に襲われる。美咲の脳内では、「この生活は持続不可能だ」「絵を描く以前に、生存が危うい」という「論理的なエラー」が点滅し、「感情の膨張」がピークに達しようとしていた。アニメーターという夢と、最低限の生活すらままならない現実との乖離に、美咲は精神的に追い詰められた。


そして、その日は突然訪れた。会社で動画の修正作業を続けていた美咲は、急に目の前が真っ白になるのを感じた。キーンという耳鳴りが響き、体の平衡感覚が失われる。鉛筆が手から滑り落ち、美咲の意識は急速に遠のいていった。カタン、と鈍い音がして、美咲の体は床に倒れ込んだ。最後に聞こえたのは、同僚たちのざわめきと、遠くで響く救急車のサイレンの音だった。


次に美咲が目覚めたのは、病院の白いベッドの上だった。消毒液のツンとした匂いが鼻を突き、点滴のチューブが腕に繋がれている。美咲は自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなる。記憶が途切れ途切れで、何が起こったのかを理解するのに時間がかかった。枕元には、心配そうな顔をした悠斗と、数人の先輩が立っていた。悠斗は、美咲が目を覚ましたことに気づくと、安堵したように小さく息を吐いた。彼の顔には、微かな疲労が見て取れたが、その表情は心からの心配を物語っていた。


医師から「過労と栄養失調です。このままだと危険だ。入院が必要なレベルですよ」と厳しく告げられ、美咲は自分の身体が限界を迎えていたことを知る。「このままでは本当に死んでしまうかもしれない」という恐怖に直面し、美咲は「絵を描くこと」と「生きること」が、決して切り離せない重さを持つことを痛感した。美咲の脳内では、「生存」という最優先事項がフィルタリングされ、絵を描くことへの「価値観」と直接的に結びつけられたのだ。命あってこその夢なのだと、美咲は心の底から理解した。


悠斗は口数は少ないが、美咲の憔悴しきった顔を見て、黙ってコンビニの袋を差し出した。中には、ゼリー飲料と、栄養調整食品が入っている。そして、温かい缶コーヒー。「無理、するなよ」と、悠斗はそれだけ短い言葉を残して去っていった。その短い言葉に込められた優しさに、美咲は涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。自分が一人ではないこと、そして支えてくれる仲間がいることに気づき、心の奥底で温かい感情が芽生えた。美咲は、悠斗が差し入れてくれたゼリー飲料をゆっくりと口にする。甘くて冷たいゼリーが、乾いた喉を潤し、美咲の体に染み渡っていく。この経験が、美咲の心に深い傷跡を残しながらも、生きることへの新たな意識、そして仲間への感謝をもたらした。美咲は、まだこの場所で、絵を描き続けることを、静かに決意した。自分の「価値観」を守るため、そして、支えてくれる人々のために。

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