わたしはまだ、描きたい。〜アニメーター美咲、汗と涙の物語〜
五平
第1話:描けない焦燥と一筋の光
美咲の部屋は、壁一面に幼い頃から心を奪われてきたアニメ作品のポスターが隙間なく貼られ、まるで彼女自身の内面を映し出すかのようだった。陽光が差し込む昼間でも、部屋の隅には常に微かな陰が宿り、美咲の心象風景と重なる。ベッドサイドには、お気に入りのキャラクターグッズが所狭しと並び、その傍らには、使い古されて表紙が擦り切れたスケッチブックが山と積まれていた。鉛筆の削りカスが机の上に散らばり、使い込まれた消しゴムは小さく擦り減っている。その全てが、美咲がどれほど絵と向き合ってきたかを示す証だった。部屋全体に漂うのは、紙とインク、そして微かな鉛筆の匂い。美咲にとって、それは紛れもなく「夢の香り」であり、同時に、叶わぬ夢の残滓が混じったような、切ない香りでもあった。
美咲は、窓の外をぼんやりと眺めていた。青い空に白い雲がゆっくりと流れていく。しかし、美咲の心の中は、その空とは裏腹に、鉛色の重たい雲が立ち込めていた。幼い頃、初めてアニメを見た時のあの衝撃と感動は、今でも鮮明に美咲の心に残っている。「魔法少女〇〇」の変身シーンに胸を躍らせ、キャラクターが画面の中で生き生きと動く姿に、美咲は夢中になった。特に、彼女の心を深く捉えたのは、キャラクターが感情を露わにする瞬間の、たった数枚の絵が織りなす圧倒的な「生命力」だった。怒り、悲しみ、喜び、そして決意。それら全ての感情が、線と色彩によって表現され、見る者の心を揺さぶる。美咲は、その時、直感的に悟ったのだ。「私も、この魔法を生み出したい。この感動を、いつか誰かに届けたい」と。それが、美咲の人生における、最も純粋で揺るぎない「価値観」として、心の奥底に深く根付いた。
しかし、その「価値観」を現実にするための道は、あまりにも険しかった。いざ鉛筆を握り、真剣にキャラクターの顔や動きを描いてみるものの、美咲の指先はまるで制御を失ったかのように震え、線は思うように引けない。デッサンは狂い、頭の中で鮮明に描かれる理想のイメージとはかけ離れた絵しか描けないのだ。美咲は何度も、何度も、同じキャラクターの顔を描き直す。左目と右目のバランスが取れない。体の比率がおかしい。動きを表現しようとすると、体がぎこちなく、まるで操り人形のようになってしまう。描けば描くほど、美咲の絵は、理想から遠ざかっていくように感じられた。何度描いても、紙の上にはただの「線」があるだけで、そこに「命」が宿る気配は全くない。まるで、美咲の感情と手の動きが、別の回路で動いているかのように、分断されてしまっているような感覚だった。この「違和感」が、美咲の心の奥底に澱のように溜まり、やがて「感情の膨張」へと繋がっていく。
「どうして、こんなに描けないんだろう…こんなにも好きで、こんなにも描きたいのに…!」
美咲の口から漏れるため息は、鉛筆の芯が折れる音のように小さく、しかし美咲自身の耳には、鉛筆が紙を擦る苛立つ音よりも大きく響いた。完成しない絵を前に、美咲は自分の無力さを突きつけられる。描いては消し、消しては描く。美咲の指先は、消しゴムと鉛筆の摩擦で赤く染まり、ヒリヒリとした痛みを伴っていた。消しゴムのカスは山となり、紙は薄く、今にも破れそうになっている。指先には、常に鉛筆ダコが硬く盛り上がっており、それがまるで、美咲の努力を嘲笑い、限界を突きつけているかのようだった。美咲の心は、深い霧の中に迷い込んだように、出口が見えなかった。漠然とした未来への不安が、美咲の胸の奥で渦巻き、重くのしかかる。このままでは、ただ時間だけが過ぎていく。自分は一体、どこに行けば、この才能の壁を越え、本当に描きたいものに到達できるのだろう。美咲の思考は、堂々巡りを繰り返していた。夜は長く、美咲はしばしば夢の中で、自分が描いた絵が鉛のように重くなり、地面に落ちていく悪夢にうなされた。目覚めた時も、その重苦しい感覚が美咲の体にこびりついていた。
そんな、心が擦り切れそうな日々を送っていたある日のこと。郵便受けに、ひときわ目を引く一通のパンフレットが届いていた。それは、美咲が長年憧れてきた大手アニメスタジオ「スターゲイザーアニメーション」が運営する専門学校のものだった。その名前を見た瞬間、美咲の心臓は「トクン」と大きく鳴った。その音は、まるで乾ききった大地に一滴の水が落ちたかのような、微かな、しかし確かな希望の響きだった。
光沢のある紙面をめくると、そこに写し出されていたのは、目を輝かせながら集中して机に向かう学生たちの写真だった。彼らの手元には、美咲には想像もつかないほど生き生きとした線が走っていた。躍動感あふれるキャラクター、繊細な背景、そして何よりも、絵から溢れ出る「生命力」。どれもこれも、美咲が「描きたい」と願ってやまないものばかりだった。彼らの表情には、美咲が失いかけていた「絵を描く喜び」が満ち溢れているように見えた。
美咲の視線は、特に一枚の写真に釘付けになった。それは、鉛筆を握り、真剣な表情で画面を見つめる一人の女性の横顔を捉えたものだった。彼女の瞳には、迷いなく未来が映っているように見え、その姿は、まるで美咲自身の「価値観」を体現しているかのようだった。その瞬間、美咲の止まっていた思考回路が、まるで長い眠りから覚めたかのように、再び動き出す。胸の奥で燻っていた「描きたい」という純粋な欲望が、一気に「感情の膨張」として溢れ出した。
「私も、こんな風に描けるようになりたい。いや、必ずなるんだ」
それは、美咲の心の奥底に深く沈んでいた、最も純粋な欲望が、再び水面に力強く浮上してきた瞬間だった。パンフレットは、まるで暗闇に差し込んだ一筋の光のように、美咲の心を照らした。これまで漠然と抱いていた「いつかアニメーターに」という夢が、具体的な「場所」として、明確な「目標」として、美咲の目の前に現れたのだ。パンフレットに触れる指先が微かに震える。そこに、小さく記された「体験入学」の文字が、美咲の視線を引きつけた。美咲の心臓が、トクン、トクン、と大きく、そして力強く、全身に希望の血を送り出すかのように脈打った。その鼓動は、美咲の耳にもはっきりと聞こえ、美咲の意識を覚醒させた。それは、諦めかけていた夢が、再び息を吹き返した音であり、未来への確かな予兆だった。脳裏に、自分が描いたキャラクターが生き生きと動き、画面の中で躍動する光景が、一瞬だけ鮮やかに、そして現実味を帯びて浮かび上がる。その幻影が、美咲の全身に微かな電流を走らせ、美咲の心を奮い立たせた。
深く息を吸い込み、ゆっくりと、しかし力強く吐き出す。美咲の顔に、それまで見たことのない、研ぎ澄まされた決意の表情が宿る。口元は固く結ばれ、瞳には強い光が宿っていた。この一歩を踏み出さなければ、一生後悔するだろう。漠然とした不安は消え去り、その代わりに「行動への必然性」が美咲を満たした。それは、単なる衝動ではない。自身の「価値観」である「描くことの喜び」と「感動を届けること」を追求するための、明確な「思考」であり、具体的な「動作」への「助走」だった。美咲は、パンフレットを強く握りしめ、来るべき未来に向けて、静かに、しかし力強く頷いた。彼女の心の中には、新たな希望の炎が、静かに、そして熱く燃え上がっていた。美咲の目は、既に未来を見据えていた。
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