第8話 良い先輩みたいに振る舞いたいのか
柔道の取材はソツなく終えることができた。向こうから話してくれることもあり、記者としてはずいぶん楽をすることができた。流石にトップ選手ともなると、メディア対応もお手の物だ。
入った喫茶店でコーヒーを飲む。さぼっているわけではない。バッグにはノートパソコンを常備している。出先でも記事を書けるようにするためだ。
店内を見回す。やんわりとしたこの店は、来る客も年配者が中心だ。六〇代ほどの女性二人が呑気に談笑をしていた。フレンチトーストの香りが漂っている。
「よし」と気合いを入れなおして、俺はノートパソコンを開いた。頭は記事を考える、なんてことはなく、スケートパークが浮かんでいた。
徳永は初めての単独取材のはずだ。大角が一緒について行っているとはいえ、何か粗相をしていないだろうか。別に怒られるのは俺ではないが、どうしても気になってしまう。
かぶりを振る。今は自分の仕事に集中すべきだ。俺はソフトに文字を入力し始めた。ボサノヴァが流れる店内。脳裏によぎる徳永の影を払しょくするように、俺はひたすらキーボードを打った。約一〇〇〇文字の頭は一時間もしないうちに書き上がった。特に手ごたえがあるわけではないが、全ボツになることもないだろう。
メールで八幡さんへと、初稿を送る。コーヒーを飲み干すと、コップの底に犬のキャラクターが描かれていた。
直しもすぐに終わり、俺は喫茶店を出た。気が付かないうちににわか雨が降っていたらしい。アスファルトが湿っている。もう今日の仕事は済んだが、俺の足は少し離れたJRの駅へと向かっていた。東美新聞社まで一本で行ける駅だ。何をするというわけでもないのに。
もしかしたら、徳永がどんな肩を書くのかが見たいのか。良い先輩みたいに振る舞いたいのか。
いつの間にか早足になっている。駅はもう見えている。
編集局は、早版の締め切りが迫ってきているからか、どこか急いた空気があった。あちらこちらで口喧嘩めいた相談がなされていて、しばらく味わっていなかった喧噪を思い出す。
話しかけようとすると、徳永は急に立ち上がる。髪をかき分けて、ようやく俺が帰ってきたことに気づいたようだった。
「根本さん、お疲れ様です。今日の取材どうでした?」
「それはこっちのセリフだよ。お前こそ今日の取材どうだったよ。ちゃんと粗相のないようにできたのか?」
「それは大丈夫です。リリィもいつも一緒に滑ってるときと同じように喋ってくれて。正直ちょっと身構えていたんですけど、杞憂でした。あ、たった今記事書き上がったところなんですけど、読みます?」
「読むに決まってんだろ。お前が変なこと書いてないか、先輩としてチェックしなきゃいけないからな」
徳永は少し微笑んだ。こちらの思惑まで見透かされている気がする。プリンターは初稿を二枚印刷した。徳永は「お願いします」と言って、俺に初稿を渡すと、八幡さんの机へと向かっていった。
まだチェックも終わっていないらしい。後ろ姿を見送り、目を通す。
来年のオリンピックに採用された新種目、スケートボード。初めての五輪出場を目指す新鋭、岸井グレース莉璃(20)が好調だ。街中を模したコースで技を競うストリートが専門の岸井は、今月の大陸別選手権で優勝。世界ランキングでも12位につけるなど、日本で一番五輪出場に近い位置にいる。
岸井がスケートボードを始めたのは、アメリカに住んでいた5歳のとき。以後、本場で技を磨き、12歳でアマチュアの大会で初優勝を飾るなど、将来を嘱望されてきた。中学卒業とともに日本に移住。高校で知り合った友人らとともに、腕を磨いてきた。
高校時代のことを岸井は「学校にはあまり馴染めなかったけれど、スケートボードをしている時間だけは楽しかった」と振り返る。友人とともに毎日滑っていたようだが、今現在その友人とは音信不通。どこで暮らしているかも分かっていない。
だが、「スケートボードをしていれば、いつかきっとまた会える」と岸井はあくまでも前向き。高校を卒業してから離ればなれになってしまったかつての友人に、自らの活躍を届けるため。きっと見てくれると信じ、岸井は五輪という大舞台を目指している。
悪くないと感じた。もっと支離滅裂な文章を想像していたから、想定外のこなれた文章に感心すら抱いてしまう。八幡さんが気に入っているのも、なんとなくだが分かる気がした。
「どうでした?」
気づいたら、徳永が目の前に立っていた。手にしている初稿には赤い文字がびっしりと書き込まれている。八幡さんは目をかけているからとはいえ、甘やかす気はないようだ。
それでも、これぐらいの直しだったら、徳永は軽々と終えてしまうだろう。
「まぁこれで出せるわけはないけど、初めての肩にしてはよく書けてんじゃねぇかな。でも、ちゃんと八幡さんに言われたとおりに直しとけよ」
徳永は一年目のときの俺をもうとっくに超えている。そのことが恥ずかしくもあり、誇らしくもあった。こんな感覚を抱くなんて、二か月前には想像もしていなかった。口調も優しくなりそうだったが、すんでのところで堪える。
犬と言われている俺にだって、プライドくらいある。
徳永は「ありがとうございます!」と勢い良く礼をして、自分の席に戻っていった。緩んでいた表情は一瞬にして切り替わり、パソコンに向き合う目はあくまで真剣。俺は、その姿を認めてから、編集局を後にする。足取りが心なしか軽かった。
エレベーターを待っている間、スマートフォンを確認すると、ラインが一通入っていた。
(続く)
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