第7話 エリコとリリィ
徳永から指定されたスケートパークは、広い公園の一角にある屋外パークだった。空には雲一つなく、日差しが照り付ける。刺青の入った男がランプと呼ばれる歪んだ斜面を下り、小さな子供が慣れた足さばきでデッキを回す。会話も適度にあり、のどかな空気が流れていた。
パークの奥に徳永と岸井を見つける。何も気にせず滑っていたが、俺を見つけると二人はチックタックで近づいてきた。岸井はもちろん、徳永もスムーズに進んでいた。
徳永の頭にはヘルメット。膝と肘にはプロテクター。ケガをした時の教訓が身についているらしい。
「根本さん、来てくれたんですね! ありがとうございます!」
徳永は電話と変わらず、テンションが高い。この元気はどこから湧いてくるのだろう。
「そりゃ岸井選手がいるって言われたら、行くしかないだろ。ここでこじらせて取材の妨げになったら困るしな。ほら、さっさとしろよ。こっちだって暇じゃねぇんだ」
「分かりました! そこでリリィと一緒に見ていてください!」
一瞬、リリィって誰だと考えこんでしまう。しかし、気づけば岸井は俺の隣で、頷いていた。「エリコ、がんばってね」と穏やかな笑顔で言う。岸井の下の名前は、莉璃であることを思い出す。まさか、この二人は……。
「おい、徳永。お前、岸井選手のことをリリィって呼んでんのか?」
「何度か教えてもらっているうちに、なんか名字で呼ぶのが他人行儀な感じがしまして」
そこまで選手との距離を縮めるなんて、俺にはいまだできたことがない。岸井の気に障っていないか心配になった。
「岸井選手は、下の名前で呼ばれて大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫ですよ。私と同じぐらいの年齢で取材に来てくれたのはエリコが初めてでしたし。それに教えてると楽しいんですよね。だから、何の問題もありません」
まるで、当たり前かのように岸井は淡々と答えた。その横顔は、澄んでいる。
「じゃあ、行ってきます」と言って、徳永が滑り始めた。チックタックはもうお手の物で、オーリーも俺の膝ぐらいの高さまで飛んでいた。ポップショービットで浮かびながらデッキを回す。フロントサイド180までこなしていたのだから、驚かずにはいられない。まだ始めてたかだか二ヶ月ほどのはずだ。
何よりもトリックを決めるたびに、弾けるような笑顔を俺たちに向けてくる。岸井は無邪気に拍手をしていた。俺は、ただただ関心しきりだった。徳永は水を得た魚のようだった。
息を切らしながら、それでもチックタックで徳永は俺たちの元へと帰ってくる。ヘルメットを外すと、髪を後ろで結んでいた。「どうでしたか!?」と食い気味に聞いてくるので、俺は「すごいな」とだけ答えた。手短に答えないと、何かが奪われてしまう気がした。
ある種の防衛反応ともいっていい。
さらに、岸井にも励まされた徳永は、気を良くしたのか、少し休んでから今度はランプを滑り始めた。膝を曲げながらランプを往復している。
まるで小さな振り子時計のようで、気がつくと見入ってしまっていた。暑さで脳がやられていたのかもしれない。何か帽子を被ってくればよかった。
「どうですか、根本さんも滑ってみます?」
岸井がそれとなく聞いてくる。デッキのノーズが俺の方に向けられていた。
「いや、僕はいいです。見ているだけで。運動もあまり得意ではないですし」
トップ選手のデッキを使うなんて、恐れ多すぎる。デッキだって喜ばないだろう。それに、サッカー部でも中高六年間ずっと補欠だった俺だ。いきなり滑れると思うほど、うぬぼれてはいない。
「そうですか、滑れるようになると気持ちいいんですけどね」
岸井の声に曇りはなかった。徳永が滑っているのを喜んでいるように見える。それを知ってか、徳永はランプの頂上から滑り降りる直前に、少し微笑んでいた。心の底からスケートボードを楽しんでいるらしい。
「エリコ、凄いんですよ。ボディバランスが良くて、なかなか転ばないですし。コツを掴むのも早くて、オーリーなんて一か月もしないうちにできるようになりましたし。センスありますよ」
「いえいえ、岸井選手の教え方が上手なだけですよ。あいつもちょっとは運動神経良いみたいですけど、しょせんは素人ですし」
徳永はランプでも軽やかなターンを披露していた。まるでもう何年もスケートボードに慣れ親しんでいるような、そんな錯覚をしてしまう。
「さっき、私、同じくらいの年齢で取材に来てくれたのはエリコが初めてだって言いましたよね。もちろんそのことも嬉しかったんですけど、何よりエリコがスケートを始めてくれたのが嬉しくて。大学の友だちはスケートになんて全く興味がないですし、取材に来てくれる人も、誰一人としてスケートをやっている感じがしないんですよね。エリコみたいにスケートを楽しんでくれる人めったにいないですよ。エリコは私の友だちです」
噛みしめるように岸井は語っていた。取材相手に友だちとまで言わしめるとは。徳永は人たらしだなとふと思う。
しかし、当の本人はそんなこと知らずに、ロックトゥフェイキーに勤しんでいる。
「根本さん、あの日、エリコを連れてきてくれてありがとうございます。一緒にスケートをやる友だちができて、私、今スケートボードが楽しくて仕方ないんです。これからもどうかよろしくお願いしますね」
そこにいたのは、単なる取材相手ではない。目をキラキラ輝かせて、生きがいを語る一人の人間だ。俺は「こちらこそ」とだけ答える。たぶん、照れていた。
徳永が息を切らしながら引き上げてくる。俺たちの話の内容は聞こえていなかったようで、「何話してたんですか?」と聞いてくる。岸井が「別に何でもないよ」と、しとやかな笑いを浮かべながら答えた。
ウィールが滑る音は止むことはない。真夏の太陽が、俺たちを燦燦と照らしていた。
今日も外は猛暑日だ。冷房の効いた編集局内は、暑さにやられる動物園の動物みたいに活気がない。スポーツ新聞のピークである甲子園は先週幕を閉じた。今は閑散期といっていい。
星原が大きくあくびをしている。八幡さんが俺のもとに近づいてきて言う。
「根本なんかネタねぇか?」
俺は明日の取材の下調べをしていた。パソコンから目を離し、八幡さんの方を向き直る。アロハシャツを着ているが、陽気な感じは全くしない。
「明日さ、ネタが少なくて困ってんだよ。このままじゃ紙面が埋まらねぇ。お前ネタ持ってんだろ? 出せよ」
決めつけて食ってかかる。もう恐喝に近い。だけれど、俺は未来の猫型ロボットではないから、そんなに都合よくネタを出せるはずもない。正直に言おうとしてみても、つい怯んでしまう。
「私、ネタ取ってきましょうか?」
通りがかった徳永が、足を止めて言った。俺に助け舟を出そうとしてくれているのだろうか。八幡さんの口は驚いたように、ぽっかりと空いている。
「私、岸井選手と仲良いですし、ネタになるような話もあります」
「徳永、それは本当か?」
「はい、書けと言われればいつでも書けます」
新聞記者の華はスクープだ。だけれど、紙面は特ダネばかりで形成されているのではない。ニュースがないときに紙面を埋められることも、スクープに負けず劣らず評価される。
八幡さんの目が輝いた気がした。
「じゃあ、頼むわ。明日の肩でな」
肩とは、トップニュースの頭に次いで、その紙面では二番目に重要なニュースのことを指す。俺は一年間ベタ記事から抜け出せなかったというのに。
徳永の明るい返事が、スピーカーから出ているみたいに、大きく響いた。
「それじゃ、根本。そういうことだから。明日の柔道の取材は、お前一人で行ってくれ。徳永には岸井の方に行ってもらう」
徳永にとっては初めての単独取材であった。早すぎると感じたが、八幡さんに「いいな?」と言われると、同意する以外の選択肢はない。俺は頷いた。徳永は喜びを抑えきれていない。
俺にも見えるようにガッツポーズをしていたし、鼻歌交じりで自分の席に戻っていく。徳永は記者の階段を一段飛ばしで、駆けあがっていた。
(続く)
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