第二話

 いくら中学からの知り合いとはいえ、さすがに凜の家に上がるのは初めてだった。

そもそも中学というのは思春期真っ盛りの時期だ。そんな時期に男女でどちらかの家を訪問することなど、不純異性交遊の最たる例すぎる。何も起こらないはずがなく…なやつである。

 「…お邪魔しまーす」

「どうぞー」

 凜の家は綺麗だった。

生活感がないと形容したっていい。あらゆるものが綺麗に整えられていて、テレビのセットとか、モデルハウスの内装って言った方がまだわかる。ここに女子高生一人に両親が住んでいる? にわかに信じがたい。

 「リビングだと気が張り詰めちゃうでしょうから、先に私の部屋に行っていてください。階段を上がってすぐ右手の部屋です」

 いやいや、いやいやいや!

逆だろ、絶対逆。絶対リビングの方がまだ気が休まる。凜の部屋? 女子高生の部屋だぞ、気が張り詰めるどころじゃない。俺は試されているのか…!

 かといって、「いやいや、凜の部屋は気が休まらないよ」なんて言うのも失礼かもしれない。ここは、家主の言うことに従うことにする。

違う、まんざらでもないとか、そんなんではない。


 凜の部屋はやっぱり綺麗だった。

想像通りというか、いや別に凜の生活感とかを妄想していたわけじゃないけど、凜らしいというか。リビングほど生活感がないわけじゃなくて、ちゃんとそこには生命の息吹が根付いているんだけれど、でもずいぶん整っていた。

 「お待たせしましたー」

勝手にどこかに座るわけにもいかず、ただ突っ立っていると、部屋のドアが勢いよく開いた。

ブレザーを脱いだ凜が、お盆に二人分の麦茶を乗せてやってきたようだった。

 「そんな、いいのに。」

「いや、私が上がってけと無理を言ったんです。これくらいのもてなしは妥当ですよ」

 無理を言った自覚はあったんだ。ならそもそも言わなきゃよかったのに。おかげで俺は今にも臓腑が口から飛び出しそうな思いをしている。

 「あ、そこ座ってもらっていいですよ」

そう言って凜が指をさしたのはベッドだった。いや、現役女子高生が睡眠に用いているベッドに、男子高校生が踏み入れるのは、なんか、こう。ね。聖域に土足で踏み入れるみたいで、申し訳ない。

 「…嫌ですか?」

「ぜんっぜん!」

 ああ、もう、こう言われたらそれはもう快く座るくらいしないとね。変な誤解を生んでしまいかねない。

凜のベッドは俺のものよりいくぶんふわふわだった。快適に睡眠が出来そうな、いい夢でも見れそうな、そんな心地だ。睡眠環境もそれなりに生活に影響を及ぼしてるんだろうな。目の前の凜が日々快活に生きている理由も分かるような気がする。

 「…それで、なんで俺を家に?」

「雄介君は知りたがりですね。世の中、知らなくていいことの方が圧倒的に多いんです。私のことはブラックボックスだと思って、いちいち私の真意を汲もうとしなくていいんですよ?」

「いや、でもねえ。」

 健全な男子高校生を突然家に上げるってのは、誤解を植え付けることにもなりかねるとわかっているのだろうか?

凜の行動の数々が無意識にもたらされているのだとしたら、彼女はあまりにずるすぎる。罪な女すぎる。

 「よいしょ」

「え、いやいやいやいや。」

 罪な女だと思ったそばから、凜は俺の隣に腰を掛け始める。

しかもシングルベッドだからか、ちょっと距離を空けるとかではなく、がっつり太腿と太腿が当たるくらい密に。

 「実はちょっとお話ししたいことがあって」

「話?」

「プライベートな空間で話したいことだったので。拉致しました。」

 今俺は拉致されてるのか。そりゃ大変だ。

「その、雄介君。」

凜は言いながら、気恥ずかしさを隠すように、そっと左手を俺の太腿の上に置く。

 凜の顔を見ると、今にも涙が流れそうなほど潤んだ瞳、熱でもあるんじゃないかと思うくらい紅くなった頬、細かく震えている唇。

やめてくれよ、変な気でも起こしそうになる!

 

——長い沈黙の帳がおりる。

「…その、言いにくいことならゆっくりで——…!」

俺の言葉は遮られる。それは必然的で、なぜなら言葉を発していた器官がふさがれたから——凜の唇が、刹那俺の唇に重なったからだった。


 ——それは微睡むようなキスだった。


凜の細い腕が俺の腰に巻きついていて、がっちり強い力で抱きしめられていて。凜の舌が俺の口の中を這いずり回るような。

官能的な蠢きをするそれを、俺も自分の舌で追いかける。時の流れは異常に遅かったけど、蠢くそれはまた異常に素早い。

 いつの間にか俺も自分の腕で、華奢な凜の身体を抱き寄せていた。

強く抱きしめ合って、本能的に求め合うみたいに。もう何も失うものはないからと、堕落を求めてどこまでも奈落に落ちていくようだった。これはきっと危険なことで、後戻りしようがないことだとどこかでわかっていた。

それでもこれを止めようとは思わなかった。あるいはそれがあまりにも気持ち良すぎるからかもしれないし、その危険性にロマンを抱いたからかもしれない。

 何度も何度も音を立てて触れ合う唇は、仄かに麻痺していた。

凜の全部を吸い取るみたいに、俺の全部を吸い取られるみたいに、それは激しくて、密接だった。

 「…雄介君」

凜は一瞬唇を離し、今にも消え入りそうな声色で囁く。

「わたし——」

また唇を短く触れ合わせて。ちゅっ、と官能的な音が部屋に響く。


「雄介君のことが好きです」


 それからまた激しくキスをする。

唇と唇はもう一体化しそうなほど激しく触れ合い、舌と舌が何ともエロティックに絡まり合う。

 凜に抱きしめられて、こんなにもくっつき合って、ただでさえ息がしづらいのに呼吸が止まりそうなほど苦しくなる。でも、その苦しさがあまりにも気持ち良くて、俺も凜の腰に回す腕の力を強める。

 「んふふっ、雄介君、苦しいですよ」

数十秒ぶりに紡がれた言葉の後で、俺の肩がとんっ、と押される。

相当弱い力だったはずなのに、硬直しきって麻痺している俺の身体は、その力にも耐えきれなかった。

俺がベッドに横たわる形になる。

 「雄介君、はやく、続き。」

ベッドに仰向けになった俺の上に乗るような形で、凜が俺のことを急かす。

 「もっと、しようよ」

凜は今まで見た中でもっとも小悪魔的で、官能的な、ずるい笑みを浮かべて言う。

 俺は凜の腰にまた手を回し、強い力でぐっとこちらに引き寄せる。

仰向けになった俺と、うつぶせになった凜。さっきよりも体同士が密着して、凜の身体のシルエットだとかが、明確に手に取るようにわかるようになる。

 「雄介君、感心しないな。」

さっきも聞いたようなセリフ。続けて、「こんなに大きくしちゃって」。

 またキスを始める。

濃厚で、官能的で、本能的な、それでいて繊細で、儚くて、消えそうな。時間の流れなど俺たちの前では無力で、今この空間に存在しているのは俺と凜だけだった。他には何もいらない。実際他のものはここにない。

 寂寞、欲望、それらを満たすために、俺たちはキスをする。

 好意、愛情、それらを表すために、俺たちはキスをする。

 本能、独占欲、それらが暴走しないために、俺たちはキスをする。

「雄介君」

一瞬唇を離した凜が、何かを言おうとする。でも、すぐに首を横に振って。

「雄介君だけでいいんです」

唇を触れさせて、俺の頬を撫でながら。

「雄介君だけが、いいんです」

 夕暮れの橙色が窓から差し込んでいる。

それが凜の頬を美しく照らして、彼女をもっと美しく魅せていた。心の中で呟く。——俺も、凜だけがいい。

でもそんなことを、今言葉という形で明確化させるのはナンセンスだと思った。

 俺は起き上がって、上に乗る凜を抱きしめながら、凜を押し倒して逆に俺が凜の上に乗る。

「んふ、無理やりなんだから」

 それに対する答えは言葉にせず、キスにした。

舌を絡めて、凜の奥深くまで入り込むみたいに。凜の水面下に溺れるみたいに。

そのキスは、橙色が藍色の光になるまで続いた。

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