凜然さと月の光に、そっとキスをする。
佐伯 ゆず
第一章「道後頑張れ大作戦」
第一話
ホームルームが終わって、教室の空気がいくぶん弛緩する。
今日は風が強い。ベージュ色のカーテンが、僅かに開けた窓から流れ込む春風に躍って、透明感を湛える青空を覗かせている。
俺は鞄を持って、放課後の約束だのなんだので盛り上がるクラスメイトを尻目に、一人すたすたと教室を出ていく。
…はずだったが、やはりそれは許されなかった。俺のクラスである三組から昇降口に行くためには、二組と一組の前を嫌でも通らなくてはいけない。
一組の前に、やっぱりいた。
「雄介君、感心しないですよ。今日もげっ、みたいな顔をして私のことを見た」
そりゃするだろ、俺が望んでるわけじゃないんだから。
凜はなぜかここのところ、一緒に帰りたがる。始まりは二週間ほど前だったが、人間三日連続してその行いをすれば、習慣化してしまうというものだ。
最初は抵抗感が強かったはずなのに、今じゃうわあ、みたいな感情を一瞬抱いて終わり。それ以降は凜に流されるがまま。
「さ、帰りましょ。今日はちょっと急ぎ足で」
凜は他の女子と比べても相当背が小さい。百七十数センチある俺の、肋骨のあたりしかない。きっと、凜の身長の分は全部頭に行ったのだろう。彼女は相当頭がよく、定期考査の順位で彼女の上に名を馳せる者はいまだ一人もいない。
少し高めに結んだポニーテール、透き通る白い肌、細い四肢。一目見るだけじゃ栄養が足りていないんじゃないかと勘違いしそうになる。だが、彼女はこれまた学年一の大食いだ。栄養が足りていないはずがない、むしろ栄養過多だろう。
「…その、なんで俺とそんなに帰りたいの?」
下駄箱で靴を履き替える凜を待ちながら、そう聞いてみる。今までも何度か聞いてみたことがあったが、いつも決まって、適当に流されてしまうばかりだった。今日もそうだろうと思いながら、無謀だと思いながら、なんとなく聞いていた。
「——そんなに知りたいんですか?」
凜は靴を取ったそのままの勢いで、俺の顔をじっと見つめる。
「えっ、う…うん。」
いざ面と向かってじっ、と見つめられると、心音の高鳴りを感じずにはいられない。凜は美形だ。身長や肌の白さも相まって、本当に人形みたいに見える。
だが、俺を見つめる彼女の瞳だけは確かに生きている。瞳孔の奥で揺らめく蝋燭の灯が、俺の視線を掴んで離さない。
「じゃあ、特別に教えてあげます。でも、それは帰り道でのお楽しみです。まずは靴を履かせてください」
凜は柔らかな微笑を湛えて、俺から目を離す。目を離して話す凜の目は、凜の瞳孔の灯は、一瞬どことなく儚げに見えた。悲しげに見えた。
なんでそんな顔をするんだろう。凜の表情はころころ変わるし、その一つ一つが繊細で特徴的だから、彼女の心象を表情から読み取ろうとするのは至難の業である。
春も影の色を薄め始めている。春の去り際、というか、桜はもうぜんぶ葉桜に置き換わってしまっているし、目の痒さも徐々に収まってきていた。
「今年も夏が来るんですね」
隣の凜がつぶやく。その声色はいくぶん切なそうだった。
「春、好きなのか?」
「うーん、違いますね。春が特段好きなわけではなくて、夏が特段嫌いなんです。嫌いなものが迫り来ているとなれば、たとえ自分の中で普通のものだったとしても、藁に縋るってもんですよ」
「ふーん、そういうもんか。」
「そういうもんです」
凜との会話は往々にして他愛無いものだ。無彩色だし、味もないし、なんというか、水面下まで潜り込んで会話をすることはあまりない。
いや、そもそも他者との会話でそんな深い会話をすることもなかなかないのだろう。凜とのこれが、会話の相場ってもんだ。
「…それで、聞きたいですか?」
「えっ?」
「さっきの——私が雄介君と一緒に帰りたがる理由とやらです。」
「ああ、うん、…なんでなの?」
ここまで引き延ばしたのだ、何かとびっきり面白い理由でも話してくれないだろうか。これで「なんとなく」とか「君が一人ぼっちで可哀想だから」とかだったら、恐らく俺は容赦なく凜を置いて駆け出してしまうだろう。
「自分で言うのは小恥ずかしいので、クイズ形式にします。当ててみてください。」
凜はこちらに視線をよこすこともなく、まっすぐ前を見たまま言う。
当ててみろ、つったって、そんな難しいこと…。数のスケールが馬鹿げている神経衰弱みたいなもんだ。果てしない。
「ええ、…一人ぼっちで可哀想だったから、とか?」
俺は狡猾だ、そうあってほしくないことをわざと言って、それが言葉という確かな形で否定されることを望んでいる。無駄に心音が高鳴っている。
「…違います。私に慈悲の心はありませんので」
「それはそれでだな」
内心、俺はひどく安堵していた。違います、ときっぱり否定されたことで、俺は俺の存在を肯定してもらえたような気になった。
「じゃあ、家の方向が同じとか?」
「たしかにそうですけど、それが理由ではないです」
違うか。
思えば凜の家は俺の家からほど近い場所にある。俺の家がある住宅街の、隣の住宅街に凜の家があるらしい。
「なあ、せめてヒントをくれよ。ヒントなしじゃ果てしなさすぎる」
「うーん、しょうがないですね、じゃあヒントをあげましょう。」
そこでようやく凜は俺のことを見た。
若干チークを乗せたみたいに、頬がわずかに赤らんでいた。なんでこんな表情をするんだろう。やっぱり凜の表情からじゃわかることが少なすぎる。
「雄介君が一緒に帰ろう、って声をかけたくなるのは、どんな相手ですか?」
「…どういうこと?」
「雄介君がその人と一緒に帰りたくなる理由と、私が雄介君と一緒に帰りたい理由、かけ離れてはいないと思いますけど。」
——ますますどういうことだ。相手は凜だぞ?
一般的に考えれば、これはなんというかその、好意の伝達というか、青春イベントの最たる例というか。だが、駄目だ勘違いしちゃいけない、相手は凜だ、あの浜松 凜だ。
「…俺が一緒に帰りたくなるのは。」
相当仲がいいとか、話が合うとか。…あとは、やっぱり、そいつのことが、好きだったりとか。
「——俺と親睦を深めたいってこと?」
俺は考えついた中で一番平穏そうで、無難そうなものを選んだ。俺との交流を通して仲良くなりたいとかだったら、変に傷ついたりもしないし。
「…ははっ、あははっ、あははははっ!」
突然凜が爆笑し始める。どうしたものかと思ったが、その理由に考えが回らないほど俺も馬鹿じゃない。たぶん、俺の回答は凜の真意とはかけ離れていたんだろう。つまりハズレだ。
「まあ、うん、そういうことでいいですよ。性質としてはそれに似てますから」
「なんだよ、そういうことでいいとか。なんかむず痒いだろ」
「いいんです、雄介君は知らなくて。さらさら教える気なんてありませんでしたし」
…この野郎。もっとも狡猾なのはこいつだったってか。
「——まあいいや。」
春先の空気は気持ちが良くて、どこまでも澄んでいて、並大抵のことなら許せる気持ちになる。どうせ凜の真意とやらも大したことじゃないんだろう。知らぬが仏なこともある。知らなくていいと言われたなら、無理に知ろうとする必要もない。
「…それよりも、今日家に寄っていきませんか?」
「はっ!?」
「だから、家に。私の家に寄っていきませんか、というお誘いです」
凜は頬を膨らませ、発言を一回で理解しない俺への不満をあらわにしてくる。
「あっ、用事があるとかならそちらを優先していただいてかまいません。…でも、特に用事がないなら、こちらを優先するのが賢明且つ道理にかなっていると思いますけど。」
どういうことだ、凜は相変わらずふてくされたような表情をしている。
賢明? 道理にかなっている?
俺がこのまま自分の家に帰って日常の消費をするより、凜の家に寄った方が有意義だって言いたいのか?
「——わかったよ、家に行く。」
「よかった。そう言ってくれると信じてました」
そう言われると今後断りづらくなるだろ。凜は無自覚なのかわからないが、時々真意をくみ取りかねる発言をするから困るものだ。
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