第2話「ザッハトルテ」
「トロール、ですか?」
「あれ、知らない? トロール」
「はい」
アランが不思議そうに首を傾げると、銀色の髪がさらりと流れた。
よほど柚子の返答が予想外だったらしい。
目を丸くする彼を横目に、柚子はカウンターの奥の棚へと足を運ぶ。
(チョコレートに合う紅茶あった気が……)
戸棚から茶葉の入った缶とティーカップを作業台に二つ出した。
洗ったばかりのやかんに水を入れ、お湯を沸かす。
その間に缶を開ければふわりと爽やかな香りが漂った。
ティーポットに茶葉を入れながらアランの言葉を待つ。
「うーん、まずこの国には吸血鬼が多いよね」
「えぇ。開国当初の被害は数え切れないほどありました」
「吸血鬼の対応を知らなかったこの国は恰好の餌場だったから……痛ましいことだ」
アランはザッハトルテを慣れた手つきで切り分ける。
気にしないようにとティーポットへ意識を向けていたつもりだが、柚子の目はどうしてもアランへ向いてしまう。
(杏のジャムは難しかったけど、大丈夫なはず……)
時期になるまで首を長くして待っていた甲斐があって、新鮮なものを取り寄せることができた。
失敗しないよう細心の注意を払い作ったジャムは、チョコと風味が喧嘩しないように気をつけたつもりだ。
コーティングのチョコも薄く伸ばし、スポンジもチョコの味を損なわないように作った。
満足のいく出来になるまで作り直したことを思い出し、柚子はアランを食い入るように見つめる。
ザッハトルテを口に運んだアランが目尻を和らげ、美味しいと呟いた。
耳に届いた言葉に、柚子は肩の力を抜いた。
どうやら息を止めて見守っていたらしい。
アランは次々と口へ運んでいく。
柚子は安堵と嬉々が混じった顔で目を逸らした。
アランの食べっぷりは美味しいと体全体で言っているようで、とても直視できない。
隠しきれない嬉しさを顔に宿した柚子は緩みきった表情のまま、誤魔化すように話を続ける。
「でも吸血鬼ハンターも獲物を追ってこの国に多く来日しましたよ。そのおかげで吸血鬼の被害は減りましたし」
「うん、そうみたいだね。でもさ、吸血鬼みたいな化け物も入国もできるんだから、他の生き物も入ってこれるとは思わない?」
アランの言葉と同時にやかんから甲高い音が鳴った。
柚子は大きく肩を跳ねさせて、視線を移動させる。
水が沸騰した音だったことに大きく胸を撫で下ろした。
火を止めながら柚子は首を傾げる。
「それがトロール、ですか?」
「正解。ここではなんて言うんだったか……あぁ、そうそう。妖怪。いるだろう?」
「いえ、私にはさっぱり……」
「そうかな? 柚子は
「私にはよく分からないですが、トロールという生き物は銀が好きなのですか?」
ティーポットとカップにお湯を注ぎながら、柚子はすました顔で平然と話題を逸らした。
真意を探るような金の瞳から逃げるように。
紅茶を入れる柚子を見ながらアランが頬を緩める。
「各地で色々な伝承があるんだけど、一説にはそうあるね。子どもを守ってくれる存在だとか、吸血鬼と同じで太陽光が苦手だとかね」
「物知りなんですね」
「これでも色々な地域を巡ってたからね。ありがとう、良い香りだ。ダージリンかな」
アランの目の前に紅茶を置けば、間髪入れずに褒められる。
香りだけで銘柄を当てられてしまい、柚子は僅かに目を見張った。
紅茶はまだまだ帝都では浸透していない。
柚子は好きでよく口にするが、よさを語るにも飲む人があってこそだ。
「よく分かりましたね。父に無理を言ってベンガルから取り寄せてもらったんです」
「あぁそれで」
アランは納得だと言わんばかりに頷いて、そっとティーカップに手を伸ばした。
音を立てずにソーサーに戻した彼はとても穏やかに微笑む。
「ここまで風味を殺さずに淹れられるのも珍しい。あ、もう一つザッハトルテをもらってもいいかな?」
「ホールのままですか?」
「もちろん。ごめん、やっぱりもう二、三個食べてもいい?」
「……え? ホールケーキを、二、三個ですか……? カットケーキではなく?」
聞き間違いかと同じ質問を繰り返す。
困惑しきった柚子に言い聞かせるようにアランは頷いた。
「うん。切らなくてもいいから、そのままで。出来れば今ある分すべてもらいたいな」
「あの、しれっと量が増えてません? それに、先ほど食べていただいたものが完成品なんです」
「完成品?」
「はい。残りは試作品なので味が保証できません」
「そういうことか。大丈夫、全部食べるよ」
しっかりと頷かれてしまい、柚子は頭を捻らせた。
柚子は暗に出せる品物じゃないと言ったつもりだったのだが、通じていないようだ。
アランには回りくどい言い方では伝わらないのかもしれない。
(そういえば、たまにいらっしゃるハンターさんにもこういう言い回しは苦手だと言われたわね)
外国人と話をする時と似たものを感じ、柚子は一人納得した。
人間離れした容姿を持つアランもまた外国人だ。
「いえ、そうではなく。お客様に食べていただけるほどの品じゃないのです。ですので軽食を作りましょうか?」
「ザッハトルテがいい」
「えぇ……」
思わず口から零れた言葉を押し込むように手で口を覆う。
だが一足遅かったようで、アランの耳にも届いてしまった。
彼は驚いたように目を瞬かせている。
先ほどの少し拗ねた表情も驚いた顔も様になるのだから、美丈夫というのは罪な生き物だ。
柚子は咳払いをひとつして、誤魔化すように視線を冷蔵箱へ逃がす。
「本当に味は保証しません。それでもいいですか?」
「もちろん」
「……わかりました」
アランの有無を言わさない表情に、柚子は肩を落とした。
彼の言うとおり、作っておいたザッハトルテを全てカウンターに置く。
数え切れないほどのザッハトルテがカウンターを埋め尽くした。
柚子はげんなりとしてしまうが、反対にアランは目を輝かせた。
「さすが柚子だね。いただくよ」
「残してもいいですからね」
「ん、大丈夫」
成人男性でもホール一個が限界だろう。
チョコの甘さは無二のものだが、食べ続ければ必ず飽きがくる。
どれだけ美味しいと口にしていても、アランはすでに一個平らげているのだから、残すだろうと踏んでいた。
それが間違いだと気がついたのは、全ての皿が空になってからだった。
「ごちそうさま」
「……本当に全部食べちゃったんですね」
20皿ほどあった空になったそれと細身のアランをつい見比べてしまう。
柚子はどこに大量のケーキが入る
「すごく美味しかったよ」
「それはよかったです」
「あ、お代はちゃんと払うよ。いくらだい?」
「60銭ですね」
即答すれば、アランは不可解な言葉を聞いたと言いたげに首を傾げた。
満月のような目が細められる。
「少なすぎる。本当の値段は?」
「いえ。元々ザッハトルテは一切れ10銭で出す予定でしたので、間違ってないですよ」
「……それならますます少ない。60銭だと六つ切りのホールケーキ一つの値段だ。僕は20は食べているよ?」
「試作品に値段はつけられません」
言い切ると、アレンは眉間にシワを寄せた。
納得していない不満げな顔だ。
しかし、アレンには悪いが、こればかりは譲れない。
(もし20個の金額を請求したとして、ホールケーキが60銭だから……)
店を始めて以来、言葉にしたようなことのない金額に、柚子は内心冷や汗をかく。
南蛮渡来のものだということも相まって、この店のケーキは高い。
カットケーキだとしても庶民では気軽に手にできない金額になっている。
気軽に手に取って貰えるように気持ち安めの焼き菓子を出しているが、一日に何切れも売れる品物ではなかった。
そのため、あまり繁盛しているとは言いがたいが、稀に来店する華族や外国人のお陰で店が成り立っている。
元々、今回のザッハトルテも試作のためにいくつも作っていただけで、普段から十を超える量のケーキを作ることはない。
一ヶ月毎日店を開けていても入ってくるか分からない金額を叩きだした脳内に、柚子は卒倒寸前だ。
そんな柚子を見て、金色の瞳が何か企むように細められる。
柚子から見えぬように小袋を置いたアランが声をかけた。
「柚子?」
「ひゃい!!」
素っ頓狂な声をあげてしまい、柚子の頬に熱が集まる。
軽く笑ったアランにますます顔が熱くなってしまう。
「柚子は頑固そうだから、ここは僕が引くことにするよ」
「ご理解いただけてよかったです。この間も命を助けていただきましたし……あ!」
「ん?」
「先日はありがとうございました! アラン様のお陰で黄泉の国へ旅立たずに済みました」
「そっか。本当帝都の人は義理深いよね。あの時にもお礼をもらってるからいいのに」
眉を下げアランは苦笑する。
お礼は言っても言い足りないぐらいなのだが、その気持ちは心に秘めておいた。
アランにはやり過ぎだと一線を引かれたくないなと、欲が顔を出してしまったからだろう。
芸術品のような異性に少しでも良い印象を抱いてほしいと願うのは、年頃の女子にとって当たり前の感情だ。
その上、ザッハトルテを全て平らげてしまったのだから、柚子の心はそわそわと落ち着きがなくなってしまっている。
美味しくなければ大量のケーキを食べることは難しいだろう。
アランは上辺だけの言葉だけではなく、行動で示してくれていた。
「教会に足を運べなかったのが残念でしたけど、あの日は神に感謝しましたよ」
「そういえば帝都には教会もあるんだったけ。ずいぶんと信仰深い」
「私はそこまで……特別なことがあると神に感謝するぐらいで。信仰深いっていうのとはちょっと違うかもしれません」
少し遠慮がちに否定する。
柚子が首を傾げると黒髪が同じように傾いた。
銀糸のような髪の隙間から金色の目を瞬かせたアランは、興味深そうに口に笑みをたたえる。
「そうなのかい?」
「はい。信仰深いっていうのは、そうですね……毎日お祈りをする人を言うのではないでしょうか? あ、その信仰のお陰で吸血鬼被害が減っている地域もあるとか」
「信仰で被害が減る、ね……。あぁ、そっか。最近禁が解かれたんだっけ」
「そうみたいです」
アランが興味深そうに口元を撫でつける。
移り変わった話題に安心していると、十字架を模した壁掛け時計から低い音が鳴り出した。
短針と長針が合わさると鳴る優れものの時計はすでに十二時を指している。
「……もうこんな時間か。長居しちゃったね。この後の予定とか時間大丈夫かな?」
「もうそろそろ準備しないといけないんですが、大丈夫です。私、準備だけは早いので」
「そっか。頼もしいね。……また来てもいい?」
「はい。それはもちろん」
「ありがとう」
お礼を口にしたアレンが流れるように立ち上がる。
柔らかな笑みを浮かべた彼が、そっと柚子の黒髪を取った。
「柚子の作ったケーキも、紅茶もすごく僕好みだったから嬉しいな。それじゃまたね」
髪の束に口づけを落とすと、柔らかな笑みをたたえて店から出て行ってしまった。
放心する柚子がケーキの代金を確認し、目玉が飛び出るほど驚いたのは数分後のことだ。
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