第1話「出会い」
三日月堂と書かれた看板を両手で持ち上げながら肩で扉を押す。
木製の扉は重厚な見た目とは裏腹に、軽い力で押し開けることができる。
呼び鈴の音を聞きながら、柚子は朝日の眩しさに目を細めた。
先日の反省を生かし、目が慣れるまでの寸秒立ち止まる。
港から帰ってくる人々がちらちらと柚子へと目をやり、早足に去っていく。
(? どうしたのかしら?)
真っ白な外壁には、今をときめく吸血鬼ハンターの広告が風に揺らめいているだけだ。
不思議に思いながらも看板を置こうと柚子が方向転換をした瞬間、ごっと何かにぶつかった。
「……へ?」
足下を覗き込む。
洋装をまとったその人は、数日前に助けてもらった男性によく似ていた。
一度見たら忘れない満月のような色の瞳かは定かではないが、同じ銀髪が朝の風に攫われて揺らめいている。
戸惑いがちに目線を移動すると、看板の足が彼の背中にめり込んでいた。
柚子は声なき声を上げながら飛び上がり、看板を投げ出してしゃがみ込む。
「大丈夫ですか!!」
肩を揺らすが、彼は苦しげに呻くだけだ。
柚子の頭の中はすっかり焦りで満たされてしまう。
(ど、ど、どうしよう、看板ぶつかったよね!? え、私のせい!? というかなんでこんなところに倒れてるの!? もしかして、吸血鬼に襲われたとか……)
先ほどの視線は彼に向けられたものだったのだろう。
今も行き交う人々は遠巻きに目をやっては足早に逃げていく。
もし吸血鬼に襲われていた場合、噛み跡があるはずだ。
緊張を呑み込む。
震える指で彼の首を隠す銀髪を払った。
目に見える箇所に噛み跡はない。
反対側の首筋に手を這わせば、彼の口から艶のある声が漏れた。
ぎくりと体を強ばらせた柚子だったが、噛み跡は確認できなかったため、心の底から安堵の息を吐いた。
ただの浮浪者の可能性も否めない。
普段の柚子であれば、すぐに
しかし、先日助けてもらった男性と同じ髪色というだけで、見捨てられない気持ちがわき上がる。
「あの、どうされましたか?」
再度肩を揺する。
すると、めいいっぱい眉間にシワを寄せた後、瞼が上がった。
銀糸のような髪の隙間から金色が覗く。
(この目……)
見覚えのある色に、柚子は彼の顔を覗き込んだ。
拍子に黒髪が彼の顔を隠すように垂れ下がる。
美しい造形に影が降りると、金色が瞬かれた。
「君は……」
「よかった。気付かれましたか? 何があったのです?」
一息に問えば、彼の目が泳ぐ。
どうしたものかと思案するような表情に、柚子は首を傾げた。
そっと洋装に触れながら告げる。
「言いにくいことならば、仰らなくても……」
「腹が……減って」
「え?」
恥じるような声色で呟かれた言葉が、鼓膜を震わせる。
風に煽られた呼び鈴が、柚子の困惑を広げるようにからからと響いた。
◇◆◇
西洋の雰囲気が漂う店内に、油の弾ける音が満ちる。
この三日月堂は独り立ちしたいと駄々をこねた柚子に両親が買った物件だ。
二階が居住区で、一階は店舗になっている。
西洋風の内装に馴染むのは木で作られたテーブルやカウンターだ。
改装をした業者は四苦八苦していたようだが、加工の難しい樫の木を使った物だと父が自慢していた。
その他にも貿易商として世界を飛び回る両親が集めてきた物が店内に溢れている。
十字架を模した壁掛け時計や薔薇の匂いが印象的なお香、大きな姿見、
セイヨウサンザシの植木鉢は実が落ちるからと受取を拒否していたが、ついに根負けして半年ほど前から客の目を楽しませている。
柚子は矢絣の着物が汚れないようたすき掛けをした上からエプロンを纏っていた。
熱された
途端に香ばしい匂いが店内に広がった。
焦げ目がつくぐらいに焼けてから皿へ避け、残った油を使い丸いパンも
その傍らで、火にかけていた鍋の水が沸騰したことを視認した柚子は、それにお酢を入れた。
ぐるぐるとかき混ぜ、小さな渦の中心に卵を割り入れる。
途端に白くなる卵を確認すると、柚子は隣の
焼けた丸いパンを木皿に移す。
取り分けておいたベーコンをパンの上に乗せて、柚子は少し息を吐いた。
数分放置していた鍋を覗き込み、にんまりと笑みを浮かべる。
(上手くできたわ)
鍋から取り出した卵から水気を切り、ベーコンの上に乗せた。
最後の仕上げに、卵黄に溶かしたバターとレモン汁を混ぜたソースをかけて完成だ。
木皿をカウンターに座る男性の前に置く。
金色の瞳が少し驚いたように見開かれた。
「驚いた。エッグベネディクトか。まさかこの国で見られるとは思わなかった。いただきます」
「珍しいですよね。私の最近のお気に入りなんです」
銀製のナイフとフォークを差し出せば、彼の眉間に僅かにシワが寄った。
まばたきをしているうちに元の顔に戻ったため、柚子は気にも留めなかった。
ナイフとフォークを巧みに使い、上品に一口目を運ぶ彼を眺める。
柚子はこの瞬間が好きだ。
心の臓が跳ね回る瞬間でもあるが、腕によりをかけて作った物を口にしてもらえる喜びは、なにものにも変えられない。
一挙一動を見逃さないようにじっと見つめる。
エッグベネディクトを口に含んだ金色の目尻が和らいだ。
妖艶に微笑んだ彼の瞳と視線が絡む。
「すごい美味しい。でもそんなに見つめられると困ってしまうな」
「あ、すみません」
「大丈夫だよ。さすが柚子だね、料理が上手いのは親バカじゃなかったみたいだ」
「……へ?」
突然に呼ばれた名に、柚子は目を丸くしてしまう。
満月のような目が楽しげに細められる。
彼は二口目を運びながらくすくすと笑った。
「お父様にはいつもお世話になっていてね。君のことも聞き及んでいたんだ。驚かせてごめんね?」
「……そうですか。父はなんと?」
柚子は警戒心を隠さずに強ばった声で答える。
さながら毛を逆立てた猫だろうか。
エプロンをぎゅっと握りしめながら柚子は一歩下がる。
柚子の無礼な態度を気にした様子もなく、彼は告げた。
「帝都に行くなら娘を気にかけてほしいと言っていたよ。僕にぴったりの店を営んでるって。ほんと食えない人だ」
「食えない……?」
「うん。まぁセーメーほどではないけどね」
知人の名だろうか。
聞き覚えのない名に柚子が首を傾げていると、彼はそうだとフォークを置く。
ジャケットから一通の手紙を取り出しカウンターへ置くと、彼の手はまた食事へと戻っていった。
「それ、君の父君から預かってたんだ」
「えっと、ありがとうございます?」
「どういたしまして」
下がったはずの一歩を戻し、手紙に手を伸ばす。
それに書かれた名は確かに父のものだ。
そっと紙を広げる。
父の筆跡で綴られた近況報告に柚子は胸を撫で下ろした。
目を通せば、西洋料理のレシピ集を手に入れただとか、新しいお土産を送るといった、いつもと変わらない内容だった。
普段と違うのは、彼に対する言及が一行ほどあったことだろうか。
「確かにお父様の手紙ですね。それで、あなたの名前は?」
「あぁ、名乗ってなかったっけ。僕はアラン。よろしくね、柚子」
「よろしくお願いします。アラン様」
「硬いなぁ。それで、そこの卵白はどうするの?」
いつの間にか食べ終わっていたアランの視線を追えば、取り分けていた卵白がぽつんと置かれている。
柚子は少し考え込む素振りを見せるが、すぐに用途を決めた。
「メレンゲに仕立てて、レモンパイにしようかなと……」
熱い視線を感じ、アランへと目を向けた柚子は少し肩を揺らした。
金色の瞳が宝物を見つけたと言わんばかりに輝いている。
なにかを訴えかけるような美丈夫から目が話せない。
「柚子は西洋菓子も作れるの?」
「はい、レシピを両親に送ってもらって……」
「食べたい。何かないかな」
「えっと、すぐお出しできるのはレモンパイじゃないんですけど、いいですか?」
「もちろんだよ」
食い気味なアランに、柚子は苦笑を零しながら冷蔵箱を開ける。
そこには夜中に作り終えたザッハトルテが並んでいた。
柚子は切り分けていないそれを取り出し、切り分けようと包丁を手に取る。
しかし、すんでのところで制止された。
「ちょっと待って。それ、全部もらってもいいかな?」
「全部、ですか?」
「さっき言った通り、僕はすごくお腹が空いているんだ」
「……甘味でお腹を満たすのは体によくないと思います」
「正論だね。でも大丈夫だよ」
なにが大丈夫なのか柚子には理解できなかったが、本人がいいと言うのだからしかたがない。
アランの前にホールケーキを置くと、彼の顔に大輪の花が咲いた。
誕生日の贈り物を前にした子どものような反応に、柚子は自然に頬が緩んでしまう。
引き出しを開けケーキ用のフォークを取り出そうとして、目を瞬かせた。
そこにあるはずのフォークが、全てない。
柚子は呆然と立ち尽くす。
できる限りの記憶を思い出すが、最後に引き出しを開けた時には確かにあった。
アランが心配そうに柚子へと声をかける。
「どうしたの?」
「いえ……フォークがなくて」
「これと同じ銀の?」
アランがエッグベネディクトに使っていたフォークをつつく。
その様子を見ながら、柚子は頷いた。
「はい」
「そっか。ならトロールの悪戯かもしれないね。彼らは銀が好きだから」
そう言ってアランは茶目っ気たっぷりに笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます