第2話
意識が醒めたのは、明け方だった。
足を出すと強く冷気を感じ、遅くまで飲んでいた二人は大丈夫かなと一瞬思ったが、部屋の隅でそれぞれ横になっている長身の二人は、同じようにちゃんと顔の口元まで深く毛布にくるまっていて、さすがに旅慣れてるんだなと感心した。
まだ陽は出ていない。
そう言えば黄巌が『日の出が綺麗だ』と言っていたのを思い出し、井戸水で顔を洗うと、もう一度毛布を中から持って来て、雨戸の閉まった縁側に外から腰掛け陽が昇るのを待つことにした。
そんなに高い山ではないと思ったが、北西の方に向かって高い山や森があまりなく、ずっと地平線まで荒野が見通せた。
左手には深い森が広がっている。
もう少し早くに来ていたら、きっと紅葉が美しかったに違いない。
いつか春か夏に
来年の秋……。
自分はどこにいて、何をしているのだろう?
そもそも生きてこの世にいるのかさえ分からない。
そこに座ったまま、涼州の、少し白く霧掛かった静かな朝の空気の中で陸議は考えた。
(……想像も出来ない)
明日食べるものに苦労したことが無い。
たった一人で山や森を歩き、旅暮らしをしたことがない。
戦をしていたから、
死は普通の人間よりは身近に感じていたとは思って来たけれど、
自分の知っている『死』と、
彼らの語る『死』は、寿命で亡くなった祖父や、
旅の準備を怠れば、外で眠っているだけで死ぬこともあるのだという自然の話で、
気をつけて身を守って生きるのだという話だった。
国に関わる戦で、あるいは戦術の一端として不意に侵略される、個人の幸せや平穏な生活を無視して破壊する、そういう理不尽な『死』のことではない。
――穏やかな死。
そんなものが本当にこの世に存在するのだろうか?
戦って死んでいった、
死の覚悟で山の頂に立っていた
自分はどうやって死んでいくのだろう?
病なのか、
戦死なのか。
それとも別の何かなのか。
自分は今初めて、ある意味で明日をも知れない人生の瞬間を歩んでいるのだ。
貧しさや、病気が理由ではないけれど、
未来を全く思い描けない。
貧しい農民がどんな気持ちで毎日生きているかなど、想像したところで上手く理解出来なかったけれど、一日一日食べていけるか分からない中で、来年の実りの話など出来ないことはよく分かった。
ただ今日という日を歩んでいく。
それが明日になる。
それが半年続く。
一年続く。
侵略軍はそういう人々の暮らしをある日突然奪っていく。
じっ、とそこから見える全方向を見つめた。
この大地のどこかに――
曹魏に攻め落とされた、
村や町に住まう、父や、夫。男たちだ。
(……このあたりの人々は、涼州騎馬隊を最近見たことがないと言っていた)
だが陸議はその時、例え今までがそうだろうと、曹魏の軍が涼州の領域に入って来た時点で、過去がどうであったなど関わりなく、この大地のどこかに涼州騎馬隊がいるならば、必ず襲いかかってくるはずだという強い予感を覚えた。
奪われた者達の怒り。
黙って再び奪われることなど、決してないはずだ。
どのくらいの規模で今どこにいるのか。
静かな
恐ろしい獣が静かにそこに潜んでいるような。
だが、何かそれが恐怖と結びつかない。
何か得体の知れないものがいそうなのに、
それを全く怖いと思っていない自分を自覚して、
恐ろしさは分かるはずなのに、
恐怖が分からない。
これが剣を完全に振れなくなった人間の心境というのだろうか?
危険地帯をどこか、子供のように根拠も無く、自分とは別の世界のように捉えている。
涼州に入ってから
『
明らかにあいつの空気が変わった』
普通は、武将はそういうものなのだ。
軍師も、
戦を生業にする者は危険地帯が分かる。
そこに入れば自ずと警戒心が高まる。
かつては自分もそうだった気がするのだが、今となっては分からなくなってしまった。
「
じっと前の景色だけを見据えていた陸議は思索から醒めた。
「おはよう」
「おはようございます」
井戸の冷たい水で顔を洗って、徐庶はやって来た。
「早いね」
「自然と目が覚めたので」
「ごめん。俺達がずっと遅くまで五月蠅かったと思う」
陸議は笑った。
「いえ。私は寝る時に周囲に人の気配があっても寝れる質ですので。
うたた寝しながら何となくお二人の話を聞いてて、むしろ楽しかったです。
小さい頃の話とか……えっと、【
「だから【
饕餮も竜生九子の一つとされる
「うん。役人に追われてる時、名を名乗れなかったから。咄嗟に伝承の名前を借りて【
「竜生九子のお伽噺は何となくあるのは知っているのですが、私はあまり詳しくなくて……【螭吻】はどういう霊獣なのですか?」
「昨日言ってた……
【
戦いや狩りにはあまり興味がなく、世の行く末や未来のことを考えるのが好きだったとされるんだ。
だからいつも高い場所にいることを好んで遠くや空の高い所を眺めているのが好きで、学びや狩りをせず己を磨かなかったから、兄弟の中でも『あいつは
実際、伝承では【
でも【螭吻】はいつも空を見上げていたから、一番最初に
兄弟達が竜の許に馳せ参じる中【螭吻】は地上の頂に佇んで、まだ地上を気にしていた。
やがて星の魔物が天海にまず落ちると、地上にも赤い流星が落ちて、大地を引き裂いた。
地上に残っていた【
彼らはそこから大陸の西の果てに逃げて、天界の戦いの影響で地上が滅茶苦茶になったあとも生き残ったんだよ。
彼らはその人たちの末裔だとされるんだって」
初めて聞く話に、
「そうなのですか……本当に
私は【
「いや。土地により幾つも解釈はあるし、これだとはっきりした文献があるわけではないからね。古くは王朝から伝わる、王家の伝承だったというから。
竜という存在を王家の守護神として、王家の神格を高めるというのはよくある手法なんだ。
それが民間に伝わって、九匹の竜の子達の話になっていった。
色んな解釈でね。
でも
徐庶が笑っている。
彼は顔は洗ったものの、まだ髪を全く整えていなかったので、昨日
「俺は役人に追われていた時、逃げていたけど。
逃げたのは自分が悪いと分かっていたからなんだ。
自分のしたことの恐ろしさや罪深さが分かっていたから、とても贖えないと思って逃げてた。
でも逃げたって自分の罪は無かったことには出来ない。
それでも逃げるのは、どうしたらいいか分からないからなんだ。
捕まるのも怖くて、逃げ切る事も出来ないのは分かっていて、
何かとんでもない救いがある日どこからか現れてくれないかなんて、そんな途方もないことを思って、現れない救いを求めて彷徨ってる。
何の実りも無い旅だ。
【
兄弟の中には喜んでそういうものを引き受けて【
兄弟達は強く願い続けたけど【螭吻】は天龍になりたいとは、そんなに思わなかったようなんだ。
その欲のなさや向上心の無さが、結局彼の命を縮めたけど。
きっと彼は自分が死んだ時、その死によって地上に救われた民がいたなんて、そんなことも知らなかっただろうね。
俺も全ての運命や自分の行き先が分からなくても、
知らないうちに誰かを殺めたり傷つけるよりは、
例え自分が知らなくても、知らないところで自分の行いによって、助かる人がいたり、救われている人がいるような人生を送りたいと願ってる。
そんなに何もかも、都合良くはいかないのは分かってるけどね」
最後は
「……だから【
「民間伝承というのも面白いよ。【
徐庶が笑っている。
「……結局、誰が【
ふと、そのお伽噺を全く知らない
「いや。竜生九子の子達は結局、誰も最終的には【
最後に生き残った七番目の【
天龍だけが生き残り、以後竜の子は生まれず、寿命がやって来た。
そしてこの世から龍の守りの力は完全に消えてしまったんだ。
天龍が死ぬ時、魂だけは残そうと人間の中から一番尊い人間を選び、その人間の中に入って、それが帝の一族の始まり……なんていうのもあるけどね。
それはいかにも人間にとって都合のいい話かな」
「二人を争わせたのは親である
「うん。そういう天の決まりなんだって。
龍の力は強大だから、たった一人しか存在してはいけない。
世界という器に、二つの龍の魂や力は大きすぎて、滅びを招くのだとか」
「……結局全てが失われてしまったんですね」
「でも結局、星の魔物は【
それ以上のことを望むことは無かったんじゃないかなって思うよ。
……
二つの国を、大地が分けてくれてる。
あそこが地続きだったら、それこそどっちかが死ぬまで国境を巡って戦い続ける運命だったかも。
でも長江があるから、人は諦められる。
そういう自然がもたらしてくれる奇跡のような偶然を、きっと軽視してはいけないんだ。
曹魏と孫呉は不思議な運命だよ。
でも長江はきっと創始の時代からここにあっただろうから……。
地上の遠くをずっと眺めていた【
微かに笑んだらしい
サッ、と不意に射し込んだ。
彼の横顔が照らされている。そちらへと二人は目を向ける。
光だ。
荒野の地平線から日が昇った。
枯れた冬の大地が黄金色に温かく照らされていて、眩しいほどに輝いていた。
最初は一筋で、
それが瞬く間に空まで広がって行く。
「……
「はい」
「綺麗だね」
徐庶がこっちを振り返って微笑んだ。
うん、と陸議は頷く。
しばらく見ていようか。
徐庶はそう言って縁側に腰を下ろした。
――願いは叶わなかった。
「そろそろ
十五分ほどそこにいると徐庶は立ち上がって、庵の中に入っていく。
(願いを叶えたのにな)
今なら――自分に願ってくれれば、徐庶とは、はぐれて行方不明になりましたとかなんとか言って、自分だけで陣に戻ったのになと。
もっと自分が信頼出来る人間だったら、徐庶は願ったのだろうか。
自分がここにいたから、
口に出して、そうしなくていいのかと声を掛けようとも一度考えたが、
かつて
別に
行きたいなら行っていいと何度も言った。
そうするべきではないのかとも言ったはずだ。
それでも
最も行って欲しくないと思っていた時に、呉から去った。
それが運命だというのなら、
何が正しいのかなど、もう分からない。
陸議は自分から声を掛けるのはやめた。
ただ、徐庶が自分から願ってくれたら、その時はその願いを叶えようと思った。
それで自分が
そうされても悔いは無いと思える。
それだけは確かだった。
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